吉殿庄(読み)よしとののしよう

日本歴史地名大系 「吉殿庄」の解説

吉殿庄
よしとののしよう

吉富よしとみに比定される奈良興福寺領の庄園。興福寺年中行事(内閣文庫大乗院文書)の永仁六年(一二九八)正月八日条に「吉殿庄所進牛王料」とあり、興福寺の金堂吉祥御願で上紙二帖を負担している。また同年六月一日条には弘長二年(一二六二)の若宮御祭流鏑馬役を勤めた者があげられており、吉殿庄の知行者堂達禅忍の名もみえる。以後も弘長二年の例に任せて流鏑馬役の勤仕が続いている。「興福寺三綱補任」は興福寺別当の寺務に携わる上座・寺主・都維那の補任を記したもので、別当の交替ごとに書上げられている。これには貞和二年(一三四六)に権寺主清寛・都維那定乗、同三年に寺主法眼経寛、至徳四年(一三八七)に権寺主従儀師親乗、嘉慶二年(一三八八)に上座法眼憲乗が、それぞれ当庄の知行者としてみえ、別当の就任ごとに興福寺領支配の見直しが行われている。ただし三綱の職にあたる者固有の俸禄というわけではなく、応永五年(一三九八)六月一七日には慈恩院率師御房(東院毎日雑々記)、同九年五月六日には松林院僧都実雅に知行させている(「応永九年記」内閣文庫大乗院文書)


吉殿庄
よしどののしよう

興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の高市郡に「吉殿庄田畠卅町七段三百歩」とある。不輸租田一〇町八段九〇歩の内訳条里(括弧内は坪数)は、かる寺田一町一段一二〇歩が二七条三里(二)たちばな寺田一町三反二〇〇歩が二八条三里(二)、左京田一町六段一九〇歩が二八条三里(三)・四里(三)、藤原氏の大学別曹勧学かんがく院田一町四段一八〇歩が二八条三里(一)、二九条三里(一)、左衛門府田一町七反一二〇歩が二八条四里(二)、無主位田二町が二八条四里(二)、左衛門督殿位田一丁六反が二八条四里(二)である。公田畠一〇町九段二四〇歩の条里は、二七条三里(一)、二八条三里(一二)・四里(一一)、二九条三里(八)・四里(四)・五里(二)・他(一)である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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