吉野屋村(読み)よしのやむら

日本歴史地名大系 「吉野屋村」の解説

吉野屋村
よしのやむら

[現在地名]栄町吉野屋

嵐南東山丘陵沿いに位置し、南西矢田やだ村と接し、北は長嶺ながみね(現三条市)、西は鴨池かもがいけ村。集落の北側、字松原まつばら台地に縄文時代の遺跡があり、甚右衛門田じんえもんだからは平安期の須恵器が出土している。応永二二年(一四一五)八月二一日の越後守護上杉房方知行宛行状(毛利安田氏文書)によると、毛利道元に「大面庄吉野屋条瀬下分」を与えている。明応九年(一五〇〇)七月一〇日の本成ほんじよう(現三条市)宛長尾能景副状(本成寺文書)には「妙智寺住持職事、吉野谷方御相談尤候、然者如此間、御当知行不可有相違之状、如件」とあり、寺領を安堵している。


吉野屋村
よしのやむら

[現在地名]志雄町吉野屋

子浦しお川中流右岸の河岸段丘に発達した村で、宿場町子浦の東に隣接する。文明八年(一四七六)正月一一日の桜井基宗譲状(気多大宮司家文書)地名みえ、桜井基宗が吉野屋にある居屋敷畠地一所を気多社友永職桜井宗基に譲渡している。畠地の四至は「東ハ暁聖寺之畠之柳を限り、南ハ志雄河をかきり、西と北ハ吉野屋殿之畠之柳を限」とされ、地子一貫文の気多社免田であった。大永六年(一五二六)一〇月写の気多社年貢米銭納帳(気多神社文書)にも「志雄・羽喰・吉野屋・邑智分」とあるように地内に気多社の免田が散在、信濃闕所分(天文六年一二月一八日「信濃闕所分納帳案」気多大宮司家文書)・大宮司職田(弘治三年五月二七日「大宮司職田注文」同文書)・友永職分(天正四年一一月五日「友永職地子年貢注文」同文書)など同社社司田の存在が確認できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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