新堀村(読み)につぽりむら

日本歴史地名大系 「新堀村」の解説

新堀村
につぽりむら

[現在地名]荒川区西日暮里にしにつぽり一丁目・同三―六丁目、文京区千駄木せんだぎ三丁目

谷中本やなかほん村の西方にある。西は下駒込しもこまごめ(現文京区)、南は谷中町在方分と谷中感応寺古やなかかんのうじふる門前(現台東区)、北は田端たばた(現北区)下尾久しもおぐ村。村名は入堀(望海毎談)とも書き、享保(一七一六―三六)頃から「日暮里」と書かれるようになる。文安五年(一四四八)一一月日の熊野神領豊島年貢目録(熊野那智大社文書)に「三百文 につほり妙円」とみえ、紀伊国熊野社に年貢を負担する人々の一人として当地に居住の妙円がみえる。北条氏所領役帳では「新堀」四五貫文が江戸衆遠山弥九郎の所領となっている。弥九郎は北条氏宿老で江戸城代遠山綱景の一族。ほかに当地に隣接する屋中やなか駒込こまごめ(現文京区)をも所領としていた。寛永一一年(一六三四)新堀村三〇四石余は東叡山寛永寺に寄進された(「東叡山領寄進覚」東叡山御規定)。田園簿では田一四九石余・畑一五五石余。旧高旧領取調帳では高三五一石余が寛永寺領、五石が諏訪(諏方)神社領。飛地が下板橋宿にあった。化政期の家数六三(風土記稿)

村の西側の谷中から続く日暮里台地上には寺社が集中し、台地を挟んで下駒込村寄りとその東側を流れる石神井しやくじい用水(音無川)沿いに百姓地が点在する。高札は諏方すわ神社の境内から道灌どうかん山の下に出る地蔵じぞう坂の突当りに立っている。代々新堀村の名主を勤めた冠権四郎の屋敷は高札場の少し北側にあった。抱屋敷として道灌山の西側に出羽秋田藩主佐竹氏抱屋敷があり、そのほか天野勘次郎抱屋敷・水野山城守抱屋敷・浅草称念しようねん寺抱屋敷などがあった。おもな道として日暮里台地と道灌山の切通しを通って三河島みかわしま村に抜ける三河島道、田端村から佐竹氏屋敷の脇を通り下谷三崎したやさんさき(現台東区)に出る田端村道(三崎道)、高札場から地蔵坂を上がり寺社地の間を通って谷中の寺町へと続く谷中道、石神井用水沿いに田端村から東に進む王子おうじ(下谷中道)などがある(安政二年「村絵図」国会図書館蔵)。三崎道は六阿弥陀ろくあみだ道ともよばれ、春秋の彼岸には六阿弥陀詣の人々で賑わった。日暮里台地では、寛延元年(一七四八)法華宗妙隆みようりゆう寺が境内東側の崖を利用して庭園を造り、桜・ツツジを植えて以来花見寺とよばれた(風土記稿)


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]岡崎市新堀町

矢作川右岸の自然堤防上に立地。北は冨永とみなが村、東から南は桑子くわご村・池端いけばた村・小望こもう村・館出たてだし村、西は碧海へきかい台地崖端上の山崎やまざき(現安城市)に接する。

北端は字大庭おおばと称し、三河国内神名帳に「前庭天神」「院庭天神」と記す合殿社前庭まえば天神・院庭いんば天神社がある。北隣の冨永は伊勢神宮領とみられ、口碑によれば、ここに神領司庁が置かれたと伝える。また通称鎌倉街道が国鉄東海道本線沿いに碧海台地の崖端よりこの地を通る。妓楼ぎろうという字名が残る。中世平田ひらた庄の西隅に属したという。近世は初め岡崎藩領で寛永郷帳の村高二九四石余。宝暦一二年(一七六二)幕府領、明和五年(一七六八)水野家菊間藩大浜おおはま出張所(現碧南市)支配となり明治に至る。


新堀村
しんぼりむら

[現在地名]富山市水橋新堀みずはししんぼり

白岩しらいわ川左岸沿いに開けた穀倉地で、南西は高野開発たかのかいほつ村。北は八ッ屋やつや村。村名は古代条里制の区画地に新しく堀を掘ったことに由来するという(水橋町郷土史)。縄文時代晩期から古墳時代前期の遺跡が確認されている。正保郷帳では高五七〇石余、田方三六町四反余・畑方一町五反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高六四七石・免四ツ三歩、小物成は野役三四匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では変化なく(三箇国高物成帳)、元禄三年(一六九〇)の検地引高一六八石などにより、天保一一年(一八四〇)には打銀高五〇九石(「高免帳」杉木家文書)。所属組は小路しようじ村と同じ。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]松井田町新堀

五料ごりよう村の東にあり、碓氷川左岸段丘上、松井田丘陵の南面部を占める。中山道が通り、南東は松井田宿。街道沿いに江戸から三二番目の一里塚跡がある。北東方高梨子たかなしから当地にかけて大道寺政繁松井田城跡がある。同城の南側の守りとして補陀ほだ寺が建立され、当村も城の後詰としての役割を有したと思われる。後閑又右衛門尉宛の天正一一年(一五八三)八月二三日付大道寺政繁書状写(諸州古文書)に「将又松井田新堀へ御移候哉」とみえる。碓氷郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方一五四石余・畑方四五三石余。元禄郷帳にはこの高のほかに松井田村不動寺領一一石余、同崇徳すとく寺領一〇石余、補陀寺領四一石余、金剛こんごう寺領一九石余が載る。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]酒田市新堀

落野目おちのめ村の東、最上川下流左岸にあり、対岸は大宮おおみや村・遊摺部ゆするべ村。最上街道と、酒田とつるおかを結ぶ酒田街道が合流する場所で、伝馬継立が行われた(川上記)。最上川の渡しは新堀渡と称され(天和三年「指出帳」鶏肋編)正保庄内絵図(本間美術館蔵)に「船渡二町五反」とみえる。寛政五年(一七九三)の行者道中記(戸川文書)に渡賃は一人二五文で「能き茶屋多し」と記される。かつて当地はひじりみやと称していたが、嘉祥三年(八五〇)の大地震で地形が変わり、最上川の川筋を掘替えたことから新堀と改めたという(「柿崎孫助家記録」柿崎文書)


新堀村
にいほりむら

[現在地名]日高市新堀

高岡たかおか村の東にあり、ほぼ中央を高麗こま川が蛇行しながら北へ流れる。北は平沢ひらさわ村、南は野々宮ののみや村・楡木にれぎ村。東部を上野国から相模国へ向かう道がほぼ南北に通り、坂戸へ向かう道が北東へ通る。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。慶長二年(一五九七)九月の高麗郡新堀郷新井村地詰帳写(高麗家文書)があり、新井あらい村は当村南部の小名新井にあたる。田園簿では田一一石余・畑一七八石余、幕府領。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]栄町新堀

岩淵いわふち村の北に位置し、北は一ッ屋敷ひとつやしき新田・若宮わかみや新田に接する。村の南端水田地域からは室町時代の陶質土器が出土。永正七年(一五一〇)三月七日の長尾為景寄進状(本成寺文書)には永正の乱後の論功として本成ほんじよう(現三条市)に「太面庄内村上分薄曾祢并新堀・上条・吉野谷」を寄進するとあり、天文二年(一五三三)六月二四日には「太面庄内小森沢分新堀」を寄進している(同文書)。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)にも本成寺知行として新堀が記される。

慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)には三〇九石五斗余、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付二三一石一斗余・荒三四三石一斗余とある。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]菖蒲町新堀

見沼代用水(星川)右岸、さき村の西に位置し、村の西側を野通やどおり川が流下。飛地が上・下の種足たなだれ(現騎西町)にある(郡村誌)。菖蒲領のうち(風土記稿)。田園簿によると田高五二一石余・畑高五〇四石余。支配領主は戸ヶ崎村に同じ。時期は不明だが上・下二村に分れており、それぞれに村役人が置かれていた。文政三年(一八二〇)年貢割付状(大熊家文書)によると、上新堀村の反別八九町余、下新堀村は九七町一反余。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]前橋市新堀町

西は寺家じけ村、北は今宿いまじゆく村・善光寺ぜんこうじ村、東は下阿内しもあうち村に接し、南から南西は利根川を隔てて板井いたい(現佐波郡玉村町)中島なかじま(現高崎市)に対する。寛文郷帳に田方一千一五石余・畑方四八五石二斗余とある。同八年(一六六八)に下阿内村・今宿村・善光寺村を分村したと伝え(郡村誌)、田二二町四反余・畑二四町一反余(「新縄帳」前橋市役所蔵)。天明三年(一七八三)浅間山噴火による被害は当地域では新堀村が最も大きく、七月八日には利根川の泥流が押込み、火石と砂泥に埋まった。


新堀村
にいほりむら

[現在地名]江戸川区新堀一―二丁目・春江町はるえちよう一丁目・瑞江みずえ一丁目・鹿骨ししぼね一―二丁目

鹿骨村の南に位置し、東は谷河内やごうち村、南は東一之江ひがしいちのえ村、西は西一之江村。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写(鏑矢記)に「曲金 十八丁五段小 公田二丁九反半 荒張 二丁七反三百(歩)」、年月日未詳の葛西御厨入部注文写(同書)に「荒張 二町七段」とみえ、荒張は当地に比定される。なお田数注文写では、当地は曲金まがりがね(現葛飾区)に含まれるか付属するようなかたちで記載されている。


新堀村
にいほりむら

[現在地名]所沢市上山口かみやまぐち

大鐘おおがね村の南にあり、南は多摩郡宅部やけべ村・芋久保いもくぼ(現東京都東大和市)。狭山丘陵山口谷の村々の一で、入間いるま郡山口領に属した(風土記稿)。天正一九年(一五九一)五月三日武蔵孫之丞(秀貞)へ宛行われている「山口之内新井村」四七石六斗は当村をさすとみられる(記録御用所本古文書)。田園簿では山口村の内で、旗本武蔵孫之丞領一二六石の一部と旗本久貝領二三石余などに相当すると考えられる。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]石鳥谷町新堀

北上川左岸の平坦地にあり、南は戸塚とづか村、北は紫波しわ彦部ひこべ村・佐比内さひない(現紫波町)。建武二年(一三三五)五月一三日の北畠顕家下文(鬼柳文書)によれば、和賀郡のうちとして「可令早和賀左衛門四郎教義領知 当郡新堀村事」とある。暦応四年(一三四一)一二月一一日の村々年貢注進状(新渡戸岩大文書)によれば、新堀村は「前草用疋 五百九十五文 加藤左衛門四郎分 菜用疋 二貫三百五十文 布代 三貫三百廿文」を負担している。


新堀村
にいほりむら

[現在地名]坂戸市新堀

金田かねだ村の南にあり、東は塚崎つかさき村、南はみね村。南から東へとくず川が流れる。小田原衆所領役帳には他国衆酒井中務丞の所領として入西につさいの新堀一四貫二八一文がある。近世には入間いるま郡入西領に属した(風土記稿)。田園簿では田二六七石余・畑一三二石余、旗本三浦領。国立史料館本元禄郷帳では旗本土屋領。以後幕末まで変わらない。天明六年(一七八六)の畑方名寄帳(大岡家文書)では畑高一四四石余。化政期の家数四五(風土記稿)。慶応四年(一八六八)の村明細帳(根本家文書)によると高三九九石余、反別は田二六町八反余・畑一六町一反余。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]熊谷市新堀

幡羅はら郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽くしびき台地寄居よりい面東縁に位置し、北は中山道を境にたま村・東別府ひがしべつぷ村・西別府村。東の高柳たかやなぎ村との境となっている荒川の旧河道は古堀ふるぼりといわれ、地内には同名の小字も残る。「郡村誌」に「慶長の頃村の中央奈良堰用水新に成を以て新井堀村と改称し、後新堀村と改称す」とあるように、古堀に対して奈良堰ならぜき用水を新堀と称したのが村名の由来であろう。寛永二年(一六二五)一二月、大草与十郎(忠次)は当村で一〇〇石を徳川氏から宛行われている(記録御用所本古文書)


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]古川市新堀

幾筋も流れる多田ただ川の支流に挟まれた水田地帯の一角にあり、北は柏崎かしわざき村・保柳ほやなぎ村、東は上中目かみなかのめ村、南は加美かみ平柳ひらやなぎ(現中新田町)、西は同郡上狼塚かみおいぬつか(現同上)に接する。正保郷帳に田三六貫三二二文・畑一貫七六八文とあり、ほかに同所新田一二貫六八七文が記される。「安永風土記」によれば、田五一貫一八二文・畑一貫八七四文(うち茶畑四文)で、蔵入は二五貫五二四文、給所は二七貫五三二文、人頭二一人(うち沽却禿九)、家数一二、男四四・女三〇、馬九とある。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]川口市新堀

みね村の南に位置し低地の村。慶長一九年(一六一四)の年貢割付状(飯田家文書)には「新堀新田」とあり、田四町余に対して九石余が割付けられている。ほかに付荒しもみられるところから、江戸時代初期の開発と思われる。田園簿では田二四二石余・畑四八石余で、ほかに野銭永二〇〇文がある。元禄八年(一六九五)の検地帳(飯田家文書)では高二六〇石余、うち田一五六石余・畑屋敷一〇四石余、反別田二二町六反余・畑一八町一反余・屋敷一町一反余。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]分水町新堀

東を西にし川が北へ流れ、西は泉新いずみしん村、南は大武おおたけ新田。古くは喜左衛門きざえもん新田と称し、正保国絵図では高二一八石余。幕府領に属し、のち村上藩領となる。貞享元年(一六八四)の同藩領分郷村高辻帳に新堀村とみえ高八九石余。元禄一〇年(一六九七)の渡部組高反別帳(小越文書)では高三九二石六斗余、家数四七(うち水呑一一)・人数二九八。享保一一年(一七二六)からの新田開発により同一四年の検地で新堀村新田が成立(分水町史年表)、幕府領に属した。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]浅羽町新堀

平民へいみ村の南に位置する。正保郷帳に村名がみえ、横須賀藩領。田方二二六石余・畑方二三石余、安養あんよう寺領一石。領主の変遷は米丸よねまる村に同じ。「遠淡海地志」では家数三〇。上輪かみわ一九ヵ村の一村であるが、なかでも当村と平民・石原いしはらなかの四ヵ村は地窪の村で、上輪四ヵ村とよばれ下輪との間でしばしば水論が起こった。安政三年(一八五六)には江之端えのはた悪水吐圦樋伏替えをめぐって上手一〇ヵ村と相論に発展し、下手三〇ヵ村の惣代の一村として参加している。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]野栄町新堀

今泉いまいずみ村の南に位置し、村内を新堀川が東流する。南東は九十九里浜に面する。寛永二年(一六二五)知行宛行状に新堀村とみえ、村内一二〇石が旗本犬塚領となっている。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳でも犬塚領一二〇石で、今泉組に属した。犬塚氏の支配は幕末まで続き、元禄(一六八八―一七〇四)以降に開発された新田は幕府領となった。元禄一三年頃の下総国各村級分では高一三九石余で、犬塚領と幕府領の相給。旧高旧領取調帳では犬塚領一二〇石・幕府領二一石余となっている。


新堀村
につぽりむら

[現在地名]横芝町新島にいじま

三島みしま村の東に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五八八石。正保二年(一六四五)の成箇郷帳并浮役勘定目録(渡辺家文書)によると幕府領二二石余があり、その取米二石余。正保国絵図では高五八七石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では屋形組に属し、旗本関口領二二石・牧野領三七石および大久保(二氏)領二七石と五〇〇石。元禄郷帳では高八七一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高六三九石余、家数九二、幕府領と旗本松田・浅井・松波・紅林・浅岡、大久保(二氏)・中川・丸毛の九氏の相給。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]浜北市新堀

豊田とよだ郡に所属。高薗たかその村の北、天竜川の右岸に位置する。江戸時代の支配領主の変遷は中条なかじよう村に同じ。松平忠頼領郷村帳では高二六石余、畑二町九反余、うち六石余は川成。正保郷帳では畑方二六石余。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高二六余、家数一二。元禄郷帳でも同高。天保郷帳では高八七石余。享保四年(一七一九)の国領組諸色覚帳(岡部家文書)によれば家数二〇(うち水呑五)・人数一二五、馬五。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]会津高田町下堀しもぼり

東を氷玉ひだま川、西をみや川が流れ、北側で合流する。南西は下中川しもなかがわ村、南東は橋爪はしつめ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一四八石余。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高一九一石余。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]六日町新堀

田崎たざき村の北、東は藤原ふじわら村、北は下原しもはら村、西は枝村新堀新田。枝村はほかに干溝ひみぞ・下新堀がある。正保国絵図に村名がみえ、高一九三石余。天和三年郷帳では高二五〇石余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では新田ともに田二〇町三反余・畑二二町六反余、家数五一、男一五二・女一〇四、馬二四。


新堀村
にいほりむら

[現在地名]市原市新堀

有木ありき村の南東に位置する。中世は新堀郷などとみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高五六三石。寛永三年(一六二六)五月の知行宛行状では新堀村五六三石余が旗本永井領。正保国絵図でも同高で、幕末までほぼ変わらない。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七八で旗本永井二氏領。


新堀村
にいぼりむら

[現在地名]下妻市新堀

東は加養かよう村、西は小島おじま村。村内に九世紀頃と推定される条里制水田遺構が残り、開発の早さを示す。戦国期の成立と推定される覚(結城郡千代川村宗任神社蔵)に「にいほりの村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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