市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]南郷村市野沢
八戸城下(現八戸市)の南西の丘陵地に位置する。東は島守村、西は中野村、南は大森村、北は泥障作村に接する。
藩政当初は盛岡藩に属したが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設とともに同藩領に編入された。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に中野通村四ヵ村の一として市ノ沢とみえ、高三一一・三七八石、うち畑二二〇・六二九石とある。延享二年(一七四五)の戸口は八九軒・三五四人(「宗旨改組合書上申御帳」南郷村誌)。名久井通に属する。周辺の中心集落で制札場が置かれ、寛文一二年(一六七二)には切支丹禁制・忠孝奨励・毒薬禁止・捨馬禁止など六枚の制札が立てられていた(八戸藩史料)。天明二年(一七八二)縮小統合された総馬改の馬寄場の一つとされ(「御勘定所日記」同年六月一七日条)、安永七年(一七七八)には抜荷防止のための「鍬鋤類鉄荷改所」とされた(同日記同年六月六日条)。
市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]大江町本郷
月布川支流の市ノ沢川流域にあり、北は丘陵を越すと吉川村稲沢(現西川町)、東から南にかけては平坦地で左沢町と小漆川村に接する。平地は川沿いだけで、丘陵が大部分である。地名は左沢町から西に向かったとき、最初の沢であるからという。最上氏領から元和八年(一六二二)左沢藩領となり、寛永八年(一六三一)幕府領庄内藩預地、同九年庄内藩領を経て、慶安二年(一六四九)松山藩領となり幕末に至る。寛永検地では高一五四石余(最上記)。正保郷帳では市之沢村とあり、田方一一九石余・畑方五石余。
市野沢村
いちのざわむら
[現在地名]旭区市沢町・桐が作・左近山
東は橘樹郡仏向村(現保土ヶ谷区)、西は二又川村、南は今井村(現保土ヶ谷区)、北は三反田村・川島村に接する。
近世初めは幕府直轄領、宝永四年(一七〇七)旗本木村領と幕府直轄領の二給地。田園簿では「市ノ沢村」と記し、田一〇四石余、畑九五石余で、萱野役として塩七四俵を納める。元禄二年(一六八九)四月の保土ヶ谷宿助郷村高道程覚書(県史九)では保土ヶ谷宿(現保土ヶ谷区)の定助郷高二一一石余を勤めている。宿まで一里六町。同七年には同宿大助郷村となったが、助郷高は同じ。
市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]大田原市市野沢
那須扇状地の扇端部にあり、清水川が南東へ流れる。集落は字滝の湧泉近くにある。北は練貫村、南は堀米村、西は寺方村に接し、ほぼ南北に奥州街道が通る。練貫村と久保村の間と南西部に飛地がある。天正一九年(一五九一)の那須与一郎資景知行目録(那須文書)に「市沢」とみえ二二〇石一斗五升。「いちの沢たき」もみえ七四石九斗四升とある。慶安郷帳には市之沢村とあり、鍋掛村(現黒磯市)とともで田一二六石余・畑三二五石余。初め那須藩領、寛永一九年(一六四二)以降幕府領。鍋掛宿の定助郷を勤めていたが、弘化二年(一八四五)困窮により免除となった(「百村等へ増助郷申付につき請書」光徳寺文書)。
市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]佐和田町市野沢
南は上矢馳村、西は石田村、北は二宮村、東は牛込村(現金井町)。地内には深い沢がある。建治元年(一二七五)五月八日付の日蓮の消息(一谷入道御書「昭和定本日蓮上人遺文」所収)に、文永九年(一二七二)の夏頃「佐渡国石田郷一谷と云し処に有しに」とあり、一谷と記される。慶長五年(一六〇〇)の検地帳写(伊藤翠氏蔵)の表紙には「河原田ノ内市沢村」とあり、本符一万七千五二五束苅・見出一千三七三束苅。
市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]福光町土生新
大西村の北西、大井川西岸にある。弘安元年(一二七八)七月五日の石黒庄内弘瀬郷高宮村領家地頭和与状(仁和寺文書)には野畠の南の堺として「一沢薬師堂」がみえる。現在も薬師堂跡が残る。古くは石津とよばれたともいうが、旧記(菊池家文書)には「当組中昔出来村、市野沢村、慶長三年」とある。正保郷帳には市ノ沢村とあり、大西村に一括されて高付されている。
市野沢村
いちのさわむら
[現在地名]小国町市野沢
足野水村の南東に位置し、集落は北西流する足水川沿いに点在する。蒲生氏高目録帳では一野沢とみえ、「菅沼」とともに高付されていることから、近世初期の邑鑑でも高・戸数など南方菅沼村のうちに含まれたと思われる。正保郷帳に村名がみえ、田高一五石余・畑高八石余。上杉領村目録によると高一三一石余、本免一ツ七分九厘三毛余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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