観音寺遺跡(読み)かんのんじいせき

日本歴史地名大系 「観音寺遺跡」の解説

観音寺遺跡
かんのんじいせき

[現在地名]徳島市国府町観音寺

鮎喰あくい川左岸沖積地上にある遺跡。四国霊場八十八ヵ所第一六番札所観音寺の西約二〇〇メートルに位置し、阿波国府推定域内にある。平成八年(一九九六)から一般国道一九二号徳島南環状道路建設に伴う発掘調査が行われ、平成九年度・同一〇年度の調査において木簡が出土したことなどにより大きな話題をよんだ。出土遺物は土器や木簡をはじめとする木製品など膨大な量にのぼる。木製品では廃棄時の状態をそのままとどめた出土状況を示す祭祀具の数々が良好な資料として注目される。


観音寺遺跡
かんのんじいせき

[現在地名]吉備町野田

有田川左岸の標高一三―一五メートルを測る河岸段丘沖積平野に位置する古代から中世にかけての大規模な複合遺跡。昭和五五年(一九八〇)から五六年にかけて発掘調査が実施された。段丘上からは中世の観音寺跡に関連すると考えられる掘立柱建物跡や区画用の溝跡など、沖積平野と段丘の境界からは弥生時代後期から室町時代に至る農業用水路と推定される溝群を十条検出した。十条の溝群は時代によって、層位・規模・流路を変えているが、平野と段丘の境界部に掘削される点は各時代に共通する。有田川の氾濫や段丘よりの落込みなどの条件に規定され、弥生時代後期・古墳時代前期―中期奈良時代後半・平安時代前期―中期・同後期・鎌倉時代前半・同後半・室町時代前半の各時期に、掘削・改修・廃絶・新掘削を繰返したものと考えられる。


観音寺遺跡
かんのんじいせき

[現在地名]東松山市松本町

松山台地の北縁、市野いちの川の沖積地に突出した舌状台地の先端に位置し、対岸には吉見よしみ町の吉見百穴がある。三回の発掘調査が行われ、五基の方形周溝墓が確認されている。うち一基の主体部からは銅釧四個(同一の大きさ)が一列に並んだ状態で出土した。釧の輪の中に詰まっている土に骨らしきものが観察できることから、同墓に埋葬された人物遺体は、釧を腕に着装したままであったと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

知恵蔵 「観音寺遺跡」の解説

観音寺遺跡

2006年3月、国内最大級の木簡が出土した8世紀後半(奈良時代)の阿波国府跡と見られる徳島市の遺跡。木簡は全長約58cm、幅約5cmで、裏表に約150字が記されていた。中央官庁が阿波国出身の「秦人部大宅」という人物を採用する際、阿波国司に身元調査をさせた内容を記録したもの。こうした調査結果は紙に写されて平城京へ送られたとみられ、正倉院文書に約10人分の記録が残っている。

(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

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