呉羽山丘陵(読み)くれはやまきゆうりよう

日本歴史地名大系 「呉羽山丘陵」の解説

呉羽山丘陵
くれはやまきゆうりよう

富山平野の中央部、南西から北東方向に走る丘陵で、呉羽山で代表されるのでこの名がある。長さ約八キロ、最大幅二・五キロで、富山市街に面した東側が直線状で断崖をなし、西側は緩やかな斜面となっている。標高は南部のじよう(白鳥峰)が一四五・三メートル、呉羽山が七一・三メートル、北端はつヶ山が三〇メートル。呉羽山丘陵の形成は、約一〇〇万年前頃の海成層に始まり、その後の隆起により陸化し、五〇万―三〇万年前になると河川(古神通川)によって運ばれた礫や砂が堆積した。その後さらに隆起して河道は丘陵の東側へ移り、浸食により直線的な急崖をつくり、ほぼ現在の形となった。丘陵の東を呉東ごとう、西を呉西ごせいといい、富山県を東西に二分する地域区分に用いられている。

呉羽山の山名は機織業を伝来した渡来人クレハトリに由来するといわれる(「越中志徴」など)。JR北陸本線呉羽駅の南方姉倉比売あねくらひめ神社が鎮座しているが、この比売が機織の神であることも、クレハトリ伝承と無縁ではなかろう。「源平盛衰記」巻二八(北国所々合戦事)に寿永二年(一一八三)木曾義仲の部将今井兼平の軍勢が「御服山」に陣取ったとみえる。クレハトリに呉服の字が宛てられ、これが音読されてゴフクとなり、さらに御服・五福などの字が宛てられるに至ったのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報