和多田村(読み)わただむら

日本歴史地名大系 「和多田村」の解説

和多田村
わただむら

[現在地名]小浜市和多田

みなみ川を挟んで深谷ふかだに村の西に位置し、南・北は山で、奥小屋おくおやより東流して南川に合流する田村たむら川が流れる。集落左岸大原おはら・下和多田、右岸に上和多田、南川との合流地点に塩瀬しおぜがある。中世名田なた庄に属し、嘉暦二年(一三二七)一〇月一〇日付公禅契約状(大徳寺文書)に「若州和多田村河手事、件河手用途者、公禅相伝知行無相違者也、而聊有子細、以花山院前中納言殿御知行田村内岸名、下村正利両名、限五ケ年(中略)相博者也」とみえる。

和多田村
わただむら

[現在地名]唐津市和多田

松浦川下流の左岸にある。綿田わただ村とも書く。戦国末期まで波多はた川(徳須恵とくすえ川)が村内の北西山麓付近を流れていたが、寺沢志摩守の松浦川改修により、川床は開拓された。「松浦記集成」によれば、元和二年(一六一六)大渡おおわたり新田が完成した。その後も開拓は続けられ、字の津留つる六反田ろくたんだは開拓地であり、当時の堤防に植えられたハマボウがいまもわずかに残る。

慶長絵図に「和多田」と記し、文化年中記録に畝数五九町四段二六歩とある。寺沢志摩守はこの村にも郷足軽を置き、城下往還筋の見回りや山回りを勤めさせた。

中村なかむら小館こだちという丘があり、享和二年(一八〇二)石棺が発掘された。当地方での古墳発掘の最古の記録で、現在ここを坂本さかもと観音と称し、祠があって木太刀を奉納する風習がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報