田村(読み)たむら

精選版 日本国語大辞典 「田村」の意味・読み・例文・類語

たむら【田村】

[一] 謡曲。二番目物。各流。作者未詳。旅僧が清水寺に参詣すると、木陰を掃き清めている童子が、僧に問われるままにこの寺は坂上田村麻呂を檀那(だんな)として沙門(しゃもん)が建立したといういわれを語り、春の宵月下の桜花の咲き乱れる風情を楽しんで田村堂の中に姿を隠す。やがて僧の読経に田村麻呂の霊が現われ、鈴鹿山の鬼神を退治したときのありさまを語る。勝修羅(かちしゅら)の一つ。「今昔物語」による。
[二] 福島県中東部の地名。阿武隈山地中央部、夏井川・大滝根川流域の山間地を占め、大滝根山麓にはあぶくま洞、入水鍾乳洞がある。市内を磐越自動車道、JR磐越東線が通じる。平成一七年(二〇〇五)市制。
[三] 福島県中東部の郡。中世末~近世初期に郡として成立。かつては郡山市の一部や(二)も含んでいた。

たむら【田村】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「田村」の意味・読み・例文・類語

たむら【田村】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「田村」姓の人物
田村秋子たむらあきこ
田村駒治郎たむらこまじろう
たむらしげる
田村泰次郎たむらたいじろう
田村俊子たむらとしこ
田村隆一たむらりゅういち

たむら【田村】[地名]

福島県中東部、阿武隈あぶくま高地西麓にある市。あぶくま洞入水いりみず鍾乳洞の二つの鍾乳洞がある。平成17年(2005)3月に滝根町、大越おおごえ町、都路村、常葉ときわ町、船引ふねひき町が合併して成立。人口4.0万(2010)。

たむら【田村】[謡曲]

謡曲。二番目物今昔物語などに取材。旅僧が清水寺に参詣すると、坂上田村麻呂の霊が現れて寺の縁起と軍功を語る。

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日本歴史地名大系 「田村」の解説

田村
くしだむら

[現在地名]松阪市櫛田町

清水しみず村の南、和屋わや村の東にあり、櫛田川の左岸にある。「倭姫命世記」垂仁天皇二二年条に「又大若子命、汝国名何問賜、答白、百張蘇我国、五百枝刺竹田之国、其処御櫛落給、其処櫛田号給、櫛田之社定賜」とあり、櫛田の名義のいわれとなる。「和名抄」では多気たけ郡内に櫛田郷があり、「延喜式」神名帳に「櫛田神社」「櫛田槻本クシタツキモトノ神社」が記されている。

田村
あしたむら

[現在地名]立科町芦田

立科たてしな町南部。芦田宿を中心に古町ふるまち野方のがた中原なかはら日向ひなた赤沢あかざわなどの集落が散在する。

元徳元年(一三二九)三月、大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)に、垣役として「七間半 葦田」を初見とする。

村の古い中心は古町で、大井氏から出た依田(芦田、後に松平)氏が長窪ながくぼ(現小県ちいさがた長門ながと町)から芦田に居館を移し、芦田川対岸に城を築いたといわれる。その後、芦田信守が春日かすが城(現望月もちづき町春日)に本拠を移し、また慶長年間(一五九六―一六一五)に芦田宿が設けられるに及んで、村の中心は芦田宿に移った。

江戸時代は一貫して小諸こもろ領。寛永元年(一六二四)八月の松平五郎新知郷村引渡証文(清水貞夫氏蔵)では、高一千七五六石の村。また元禄一一年(一六九八)四月の国絵図郷帳仕上触芦田村書上(土屋伝氏蔵)には、古町・野県・赤沢・中原・日名田・うば懐新田ふところしんでん・こもり新田・宇山を芦田村の枝郷と記しており、これらを後に「芦田組八ヵ村」とも称している。

田村
たむら

[現在地名]平塚市田村・横内よこうち

東境を相模川、西境をたま(現渋田川)が流れ、東は高座こうざ一之宮いちのみや(現寒川町)、西は大島おおしま村、北は大神おおかみ村、南は四之宮しのみや村に接する。中央を東西に大山道、南北に八王子道が通り村の中央で交差する。

「吾妻鏡」貞応二年(一二二三)四月二九日条に「駿河前司義村、去夜自田村帰参」とみえ、また同年一〇月四日条には「奥州依請被向駿河前司義村田村別庄」とあり、三浦義村の別荘が当地にあった。安貞二年(一二二八)七月二三日には将軍藤原頼経が北条泰時らを引連れて「田村山庄」に渡り二五日まで滞在、遠笠懸・小笠懸など「田家秋興」を楽しんでいる(同書)。三浦氏の没落後は北条氏領となったらしい。元弘三年(一三三三)―建武二年(一三三五)の作成と思われる足利尊氏・同直義所領目録(県史三)には「田村郷」が大仏貞直跡としてみえる。天正一六年(一五八八)九月一四日の北条家朱印状(同書)には高座郡田名たな(現相模原市)愛甲あいこう厚木あつぎ(現厚木市)と当村の筏士中宛に北条氏政の作事の材木を須賀すかまで届けるよう命じている。同一八年四月日の豊臣秀吉禁制(同書)は「相模国大中郡田村之郷」に宛てられている。

田村
たむら

[現在地名]栃木市田村町

寄居よりい村の東、おもい川右岸の沖積地にあり、北部を田本郷たほんごう、南部を田下たしもとよぶ。北東は大光寺だいこうじ村、北は惣社そうじや村、北西は国府こう村。当地丸山まるやま古墳の墳丘上に坂上田村麻呂が祀ったという観音堂があり、これから地名が生じたともいう。また地名は田部たべから由来し、「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条にみえる田部駅を当地とする説もある。田下に下野国府跡があり、思川沿いに古国府ふるこうという地名が残る。ほか田下に錦小路にしきこうじあさひさと郷当地ごとうち(後藤地)大房地だいぼうち、田本郷に東小路ひがしこうじ西小路にしこうじ宝蔵地ほうぞうち郷の里ごうのさと日向野里ひがのさとなどの地名がある。

建久三年(一一九二)九月一二日の将軍家政所下文(松平基則氏所蔵文書)によれば、小山朝政が寿永二年(一一八三)の志田義広の乱での勲功の賞として与えられた日向野郷の地頭職に補任されている。同郷は寛喜二年(一二三〇)二月二〇日、国府郡内の地として、古国府・大光寺・宮目みやのめ社などとともに、朝政の嫡男朝長が早世したため孫の長村に譲渡されている(同日「小山朝政譲状」小山文書)

田村
たむら

[現在地名]大雄村田根森たねもり・平鹿町

東は百万刈ひやくまんがり村・下境しもさかい(現横手市)根田谷地新田村こんだやちしんでんむら、西は阿気あげ村、南は八柏やがしわ村、北は新角間川しんかくまがわ村・門目かどのめ村(現大曲おおまがり市)で、南方浅舞あさまい(現平鹿町浅舞)から北方角間川町(現大曲市)に通ずる道、横手から大森に通ずる道が交差する駅場村。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に田村新田とみえ、享保一四年(一七二九)の平鹿郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「新田ニ出と記候儀ハ古開ヲ新田ニ出候分也」とある。翌一五年の「六郡郡邑記」に「与惣右衛門(中略)慶長廿年忠進開」とある。「雪の出羽路」によれば、最上(山形県)の牢人柴田与三右衛門茂高が慶長八年(一六〇三)開田し、辛労免一〇〇石を与えられたとあり、開田成就は同二〇年であった。

田村
たむら

[現在地名]小浜市上田かみた下田しもた

和多田わただ村の西に位置し、北は飯盛いいもり(五八四・五メートル)がそびえ、南は能登地のとちより薬師やくし坂を越えて名田なたしも(現遠敷郡名田庄村)に至る。田村たむら川流域の中央部を占め、川の両岸に集落があり、上田かみた下田しもたに分れる。上田には岩井谷いわいだに見谷みたに小村こむら持田もちだ、下田には竹本たけのもときし山佐近やまざこ清水しみず脇原わきばらと、計九集落がある。

中世は名田庄下庄に属し、当村は惣庄とされ(年不詳の名田庄調度文書案)、村内の名は、建治三年(一二七七)四名(八月日付藤原実忠重譲状案)、嘉元元年(一三〇三)九名(一一月一四日付三条実盛譲状案)である。

田村
ひだむら

[現在地名]宇佐市樋田

ごう村の東に位置する。駅館やつかん川中流域の両岸を占め、西岸部は宇佐平野の南端にあたり、東岸部は河岸段丘である。両岸ともに南は別府びゆう村、北は法鏡寺ほうきようじ村に接する。地内には宇佐宮行幸会八ヵ社の一で瀬社せやしろ神社ともよばれる郡瀬こおりせ神社がある。日田とも記した。建暦三年(一二一三)八月二四日の漆島並頼譲状(北艮蔵文書)葛原くずわら郷内の田分として「日田垣伍段」とある。建保二年(一二一四)六月の大宮司下文案(樋田文書)に「葛原郷内樋田」とみえ、当地の用水溝のことで相論が生じている。同下文案や同月一五日の宇佐公房下文(同文書)によると、弁官宗房は承元五年(一二一一)に高房(隆房)入道から田地を買得し、旧来の用水溝を使用して耕作していた。しかし高房は建保元年この買得田地への用水を止めてしまったため、宗房は翌年耕作が出来なくなったとして宇佐宮へ訴えた。

田村
たむら

[現在地名]豊玉町田

めい村の東、西面の三根にしめのみね浦口から分れた枝浦田浦に臨む。浦に面して平野が形成され、集落は数ヵ所に散在していた。往時は洲渚であった地を徐々に田地にしたという(津島紀事)。康永元年(一三四二)「にのこをりのうちたのかわち」の木庭は、「た」の二郎の言い分があるといえども、「とひかゝり」の重代の畠なので旧来のごとく宛行うことにされている(同年七月一二日「資家宛行状」長岡公文書)。永享二年(一四三〇)三月六日の宗貞盛書下写(仁位郷判物写)によれば、「くちきのむら」の「むた三たん」を地蔵の造営のため「たの二郎兵衛」に売渡している。同八年「たの内のやけ山のこは」や「小ちろも」など一七ヵ所が仁位にい郡主の盛家により梅野左衛門五郎の知行として安堵されている(同年九月二四日「宗盛家書下」同判物写)

田村
ひしやくだむら

[現在地名]高知市旭駅前あさひえきまえ町・旭天神あさひてんじん町・もと町・南元みなみもと町・佐々木ささき町・長尾山ながおやま町・旭上あさひかみ町・水源すいげん町・横内よこうちつかはら西塚にしつかはら口細山くちほそやま鳥越とりごえいわぶち大谷おおたに上本宮かみほんぐう町・本宮ほんぐう町・あさひ町・中須賀なかすか

高知城下の西方、井口いぐち村の西にあたる。村の南部に平坦地のあるほかほとんどが残山・尾崎山・長尾山・新城山・蜂巣山・木峯山・横大内山・三石山・盗之谷山・口細山などの丘陵地帯で、かがみ川が村の西、朝倉あさくら村境に沿って南に、さらに村の南を東に回って流れる。

田村
ひえだむら

[現在地名]大和郡山市稗田町

佐保川東岸、美濃ノ庄みののしよう村西方に所在、環濠集落。古来、広大寺こうだいじ(現奈良市池田町)を管理する。「日本書紀」天武天皇元年七月条に「初め将軍吹負、乃楽ならに向ひて稗田に至りし日に(下略)」とある稗田の地に推定されている。「多聞院日記」慶長四年(一五九九)一二月一九日条に「若ツキ(槻)庄屋大根五ワ田庄屋大根五ワ上之」とみえる。慶長郷帳の村高六九一・一石。近世を通じて興福寺領。

口碑によると、当地が水利に乏しく稗を食べているのを聖徳太子が哀れみ、東方に広大寺池を築き水利の便を図ったという(南都法隆寺弥勒院権少僧都千学記)

田村
ひえだむら

[現在地名]上市町稗田・稗田促進住宅ひえだそくしんじゆうたく四ッ葉園よつばえん

横大坪新よこおおつぼしん村の南、上市川と白岩しらいわ川の扇状地の間に広がる平野部に位置し、東は湯神子ゆのみこ村、西は正印しよいん村。村の南で白岩川と大岩おおいわ川が合流する。正印村への道と湯上野ゆうわの村への道が通る。正保郷帳では高一千一七四石余、田方七七町七反余・畑方五反余、新田高一五三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高一千一九石、免四ツ、小物成は山役五五匁、鮭役一〇〇匁(うち四三匁出来)・鮎川役九匁(うち三匁出来)・鱒役一匁(三箇国高物成帳)。その後享保一三年(一七二八)に新開高三石余、天保九年(一八三八)に手上高四〇石が発生(天保一一年「高免帳」杉木家文書)。享保一八年には百姓家数七〇・頭振家数二(うち三軒は退転)・寺(円満寺)(「村廻帳」川合家文書)

田村
たむら

[現在地名]嬉野町田村

三渡みわたり川の中流沿いに位置し、須賀領すかりよう村の西にあたる。南は黒野くろの村、西北は算所さんじよ村、北は権現前ごんげんまえ村。小字に鍋垣内なべがいと上分田じようぶんでんの中世の土地制度に由来する地名がある。古代は須可すか郷に属していたと考えられる。村名由来を坂上田村麻呂に結び付ける伝承があり(勢陽雑記)、北畠氏家臣田村源内左衛門が居住し、その祖墓があることによるとする説もある(五鈴遺響)

田村
たむら

[現在地名]早良区田村一―七丁目・田・次郎丸じろうまる三―六丁目・田隈たぐま二丁目・四箇しか一丁目・四箇田団地しかただんち、西区田

次郎丸村の南、室見むろみ(早良川)右岸にある。対岸は吉武よしたけ村・飯盛いいもり(現西区)。東を金屑かなくず川が北流し、三瀬街道がほぼ南北に通る。応永四年(一三九七)六月二五日の飯盛宮行事役屋敷注文案(牛尾文書/飯盛神社関係史料集)に「田村」とあり、飯盛いいもり(現西区)の祭礼行事役を負担する瀬戸口屋敷・鍛冶屋屋敷などが書上げられている。

田村
ひえだむら

[現在地名]下関市稗田町・稗田南町ひえだみなみまち稗田中町ひえだなかまち稗田北町ひえだきたまち稗田西町ひえだにしまちの各全域、および土屋つちや町一丁目・垢田あかだ町二丁目・山の田本町やまのたほんまちの各一部

現下関市の西部にあたる。西は垢田あかだ、北は伊倉いくら、東は熊野くまの、南は幡生はたぶの各村と接する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する小村。字地蔵堂じぞうどうからは弥生時代中期の遺跡が発掘されている。

正慶一―二年(一三三二―三三)にかけての合戦記録「正慶乱離志」に、同二年三月長門探題北条時直が伊予国平井城を攻めた時の戦死者に長門国分として「田孫四郎入道上下三人」とみえる。また武久文書の建武二年(一三三五)四月八日付に「長門国成富名綾羅木屋敷事田次郎兵衛尉経清当知行之由」とある。これらの人は「田」の住人であったという。

田村
ひえだむら

[現在地名]北波多村大字稗田

徳須恵とくすえ川右岸ときし岳西側山麓の間にあり、村内を稗田川が流れる。

昭和三〇年(一九五五)縄文期の御領式土器や弥生期の土器・須恵器の破片および石斧・石包丁・石匙・石鑿などが発見され、飯洞甕はんどうがめ古窯付近や駒鳴こまなき峠からは弥生期の遺物が多数発見されている。

正保絵図に村名がみえるが、「徐風随箋」に「波多村とは稗田村のこと也」と記す。稗田村は中世、波多氏が岸岳きしだけ城に居城した時の居住地で、波多八幡神社と現在の人家地域一帯に、当地をしのぶ地名として、鉄砲てつぽう町・中津なかつ町・安芸殿坂あきどのさか蓮華院れんげいんなどの地名が残されている。

田村
ひえだむら

[現在地名]灘区灘北通なだきたどおり五―六丁目・灘南通なだみなみどおり五―六丁目・泉通いずみどおり五―六丁目・大内通おおうちどおり五―六丁目・岸地通きしちどおり四―五丁目・水道筋すいどうすじ四―六丁目

原田はらだ村の南東、六甲ろつこう山地南麓沖積地の中央部で、西郷にしごう川東岸に位置する。中世は都賀とが庄内にあり、文安四年(一四四七)頃の夏麦山手注文(天城文書)によると、ヒエタはミトロ(味泥)とともに烏帽子銭合計一〇〇文を負担している。文明元年(一四六九)一一月日の都賀庄寺庵帳(同文書)には稗田と肩書されて、大平寺(現廃寺)がみえる。江戸時代の領主の変遷は新在家しんざいけ村と同じ。慶長国絵図にはヒエ田村とみえ、高八一石余。正保郷帳でも同高。

田村
つくもだむら

[現在地名]船引町文珠もんじゆ

春山はるやま村の北、文珠山の北東麓丘陵に立地。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に田村庄のうちとして「一町 八百文 すくも田」とみえ、紀州熊野新宮に年貢を納めている。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)にも同様の記載がある。同一八年にも八〇〇文を納めている(同年一〇月九日「熊野新宮領差出帳」片倉文書)。同一七年八月一八日の田村宗顕証状(木目沢文書)によれば「すくも田の内(長)畠之在家」を柴原氏に与えている。

田村
よもぎたむら

[現在地名]蓬田村蓬田

蓬田川(塩木川)の流域一帯を占め、東は陸奥湾に臨み、南は阿弥陀川あみだがわ村、西は赤倉あかくら岳・大倉おおくら岳で金木かなぎ(現北津軽郡金木町)、北は郷沢ごうさわ村に接する。中世からの集落と思われ、浪岡名所旧跡考(蓬田村史)に蓬田館に蓬田太三郎あり、とみえ、戦国末期には南部氏の部下である相馬氏が蓬田館に居住していた。津軽為信の外ヶ浜そとがはま攻撃により、天正一三年(一五八五)油川あぶらかわ(現青森市)の城主奥瀬善九郎は南部に逃れ、続いて付近の豪族たちも降参し、蓬田越前(相馬氏)も南部に落ちた(津軽一統志)


たもみむら

[現在地名]豊田市田籾町

伊保いぼ川の支流田籾川に沿って開かれた村。みねとよばれる小高い丘が分水嶺で、三河と尾張の国境になっている。田籾鉱山や鶏石とりいし池がある。村域には、東畑ひがしばた第一・第三号墳(滅失)、同第二号墳があり、条里制遺構の四反田したんだの地名も残る。

天明五年(一七八五)村明細帳(田籾区有)によると、天正一九年(一五九一)には、原隠岐守検地が実施されている。

田村
あしだむら

[現在地名]成田市芦田

新妻につつま村の北に位置し、西はなが沼を挟み宝田たからだ村、北は荒海あらみ川を挟み荒海村。成田村と滑川なめがわ(現下総町)を結ぶ道が西側を通る。中世に千葉氏の家臣芦田五郎が居住したという(「芦田村町村誌料」成田山霊光館蔵)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高八五〇石余、佐倉藩領。享保八年(一七二三)から佐倉藩領と山城淀藩領の相給となる。ほか幕府領の切添新田がある。

田村
たむら

[現在地名]亀山市田村町・能褒野のぼの

亀山城の北東にあたる。安楽あんらく川と御幣おんべ川の合流地に位置する。名越なごし地区には小天狗こてんぐ富士山ふじやま・能褒野・東山ひがしやまなどの古墳群が散在する。名越には長瀬山東光とうこう寺の廃寺跡がある(亀山地方郷土史)。戦国期には関家に属する峯氏の与力山尾氏が砦を構えていたと伝え(五鈴遺響)、田村も関氏勢力下の村であったと思われる。御幣川に沿う名越では毎年六月、神宮に供御する鮎をとり、川中の小洲に神主が集まって幣を立て、祭事をなしたという(三国地志)

寛永一三年(一六三六)以降亀山藩領。同一四年の内検地では田畑合せて七一町余、村高は九二五石余で、茶桑銭一〇貫余、竹銭二貫余を上納(九九五集)

田村
ひえだむら

[現在地名]鈴鹿市五祝いわい町 稗田

なかノ川を隔てて木鎌きがま村の南にある水田地帯。応安元年(一三六八)栗真くるま庄内の田三町が熊野夫須美くまのふすみ神社領であった時、うち一町はひえた郷内にあった(→栗真庄。文禄検地帳(徳川林政史蔵)には村高二六六・九〇二石とあるが、そのなかに「くまのでん」として田二九筆、畑一六筆がある。この時の経営規模は、名請人八九、一町歩以上は二、一町―三反が一五、三反以下は七二に達する。零細農が大部分で、屋敷を所有しない者も七二と多い。慶長六年(一六〇一)の分部左京亮(光嘉)の知行帳(「分部文書」写・東大史料編纂所蔵)には「百拾弐石八斗三升 ひえ田村内」とある。元和六年(一六二〇)和歌山藩主徳川頼宣が稗田村一一一・八二六石を水野平右衛門に与えた知行状(水野文書)があり、慶安郷帳(明大刑博蔵)では和歌山藩領(一一二・八二六石)、津藩領(一五四・〇七六石)とあり、両藩入組で明治維新まで続く。

田村
たむら

[現在地名]丸亀市田村町・原田団地はらだだんち

城下の西南方、山北やまのきた村・柞原くばら村の西に位置する。寛永国絵図に村名がみえ、那珂なか郡柞原郷に所属。寛永一七年(一六四〇)生駒領高覚帳では高八〇三石余、うち新田悪所六七石余。同一八年の小物成は綿五匁(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によると高七六〇石余、反別は七八町九反余、うち畑四町三反余・屋敷二町六反余。租税は米三七七石余・大麦四石余・小麦二石余・大豆六石七斗余。

田村
ひえだむら

[現在地名]宇和島市保田やすだ

来村くのむら川中流域の村。北は川内かわち村、南は祝森いわいのもり村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)では来村に含まれている。藩内では江戸初期に来村を八浦里に分離し、この時稗田村が生れた。享保二一年(一七三六)保田村と村名を改めた。改称は、享保大飢饉後の世直りを考えてのことであろう。

太閤検地の石高は五二八石二斗、耕地面積の比率は田八五パーセント、畑一五パーセントであったが、寛文検地では石高が二七パーセントも増加しているが、田畑の比率は同率である。

田村
たむら

[現在地名]美里町田

貴志きし川南岸に村域が広がるが、西北部では北岸も一部村内に含まれる。西は菅沢すげざわ村、北東はなか村、南東は滝野川たきのがわ村。「続風土記」によると、もとは空室うつろ村といったが村が貧しいのは村名が悪いためとして、坂上田村麻呂の伝説による田村たむら堂などがあることから享和元年(一八〇一)田村と改めたという。「那賀郡誌」によると、田村麻呂が土蜘蛛退治のために紀州に来た時、貴志川下流で片目矢竹の流れるのを見て川をさかのぼり、滝野川村の片目藪を見付け、以後当村に三年居住したという伝説で、田村将軍の石塔(宝篋印塔、県指定文化財)とか将軍桜(県指定天然記念物)などと称するものが田村堂境内にある。


たもみむら

[現在地名]黒部市田籾

布施ふせ川上流にあり、西は笠破かさやぶり村、南はいけしり村。田籾川が布施川に注ぐ谷間をぬって嘉例沢かれいざわ村から下立おりたて(現宇奈月町)に至る道が通る。寛永一六年(一六三九)富山藩領、万治三年(一六六〇)から加賀藩領。正保郷帳では高七六石余、田方一町七反余・畑方三町三反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高九一石、免五ツ七歩、小物成は山役一八匁・蝋役八匁・鱒役一匁・鮎川役二匁・鍛冶炭役一五匁・漆役一匁(三箇国高物成帳)

田村
たむら

[現在地名]長浜市田村町

高橋たかはし村・寺田てらだ村の南、田村山の南にあり、西は琵琶湖に臨む。「木間攫」は加田かだ村より分出したとする。天文七年(一五三八)の六角定頼陣立注文(朽木文書)に「田村 上坂」とある。天正元年(一五七三)の作職算用帳(坂田郡志)に田村分として、小字名・畝歩・高・人物名が記される。寛永石高帳に高八四〇石余とあり、彦根藩領。文久二年(一八六二)上知され彦根藩預となる。

田村
たむら

[現在地名]朝地町池田いけだ 田村

板井迫いたいざこ村の東、南東流する平井ひらい川支流市万田いちまんだ川南岸にある。建久二年(一一九一)三月一一日の深山八幡社神領坪付境注文案(上津八幡社文書)にみえるかみ村のうち田村名の遺称地。正保郷帳に一万田いちまんだ郷の田村がみえ、田高九三石余・畑高六三石余、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一八七石余。

田村
ならたむら

[現在地名]大和町大字いけうえ字楢田

池上いけのうえ村の西、久留間くるま村の南の水田地帯であるが、嘉瀬かせ川の東に位置し水害を受けやすい。近くの久留間遺跡(弥生時代)風楽寺ふうらくじ古墳・道善寺どうぜんじ古墳などにみられるように水田耕作の発達とともに発展し、楢田からも合口甕棺が発見されている。

天文一九年(一五五〇)の千葉胤頼知行宛行状(杠家文書)によれば「肥前国佐嘉郡奈良田之内 実相寺五丁縄手末五町 江口ケ里之内壱町之事」を「武蔵殿」あてに宛行っている。

田村
よもぎだむら

[現在地名]浅科村蓬田

北背は御牧原みまきがはら台地に続き、東は桑山くわやま村、西は牧布施まきぶせ百沢ももざわ(現望月町百沢)に接し、南は中山道筋で桑山村・八幡やわた村と入り組んで八幡宿を形成する。

地籍内、御牧原台地の南斜面には古墳があり、平安時代の作と推定される鉄鐘(重要文化財)や土師器以降の土器が出土していること、村域の八幡はちまん神社内に渡来人との関係が考えられる高良こうら(重要文化財)のあることから、望月牧の発足当時牧関係の人々の居住地があったものと考えられている(北佐久郡志)

八幡神社は延徳三年(一四九一)望月光重によって再建されているが(八幡神社蔵木造棟札)、蓬田の名は天文二〇年(一五五一)の望月信雅寄進状(蓮華定院文書)に「蓬田之内三百疋之地、奉寄進候」とあるのが初見で、村名は桑山村とともに、八幡大神の桑弓・蓬矢に由来するともいわれる(長野県町村誌)

田村
たるだむら

[現在地名]安塚町樽田

北流する小黒おぐろ川の右岸段丘上にあり、村の南で船倉ふなくら川が小黒川に合流する。北は大原おおはら村、南は円平坊えんだらぼう村・高沢たかさわ村で、戸沢とざわ村から円平坊村、当村を経て船倉川をさかのぼる松之山まつのやま街道の要地。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「吉田与橘郎分直嶺分樽田村 中」とあり、本納九石一斗五升三合・縄高三六石三斗八升八合、家五軒・二〇人。近世初頭の本願寺教如書状(専敬寺文書)によれば「樽田村 十五日講中」とみえ、小黒の専敬こぐろのせんきよう寺の取次でほか一〇講中とともに銀子一〇〇目を懇志として教如に納めている。

田村
たむら

[現在地名]松阪市田村町

小黒田こくろだ村の西、坂内さかない川の右岸にあり、村域中央を和歌山街道が通る。伊勢神宮領手丸御園が当地にあたるとされ、「神鳳鈔」に「外宮手丸御薗二十七丁」とあり、「外宮神領目録」および永正四年(一五〇七)「神領給人引付」(神宮文庫蔵)に「手丸御薗五斗」と記されている。玉田寺大般若経(多気郡多気町光徳寺蔵)の奥書には、南北朝時代の康永二年(一三四三)飯高いいたか郡田村郷の記載がみられる。貞治四年(一三六五)仁木義長に押領され伊勢守護領となったが、永享年中(一四二九―四一)以降北畠氏の支配下となる(「飯高郡田村地誌」松阪市史編さん室蔵)。伊勢国司分限帳(神宮文庫蔵)に「田村住人 郡代官 田村源内」と記されている。

田村
たむら

[現在地名]浅井町太田おおた

なか村の南西に位置。東辺を草野くさの川が南流する。天正一九年(一五九一)四月二三日、豊臣秀吉が西草野・田村のうち一三石を長浜知善ちぜん院に寄進している(知善院文書)。寛永石高帳によれば高九六石余のうち小堀遠州領(幕府領か)八三石余・知善院領一三石余。知善院領は江戸時代を通して変化なし。同院領以外の領主の変遷は村に同じ。嘉永二年(一八四九)中山道柏原かしわばら宿(現坂田郡山東町)の加助郷を命じられた(東浅井郡志)

田村
たむら

[現在地名]門前町田村

高根尾たかねお村の東、はつヶ川が支流浦上うらかみ川と合流する地点付近の平地と丘陵に立地。中世には櫛比くしひヶ村の内。明応六年(一四九七)一〇月二二日の吉見統範寄進状案(総持寺文書)に「櫛比庄弐ケ村田村村」とみえ、統範が老母の位牌料として総持寺に村内高嶺尾たかねおの田を寄進している(高根尾は近世に分村)。正保郷帳では高二四八石余、田方一〇町六反余・畑方五町九反余。承応三年(一六五四)の村御印の高二六四石余、免三ツ六歩(能登奥両郡収納帳)

田村
たむら

[現在地名]神戸町田

揖斐いび川右岸に位置し、南は安次やすつぐ村。平野ひらの庄に属し、同庄に水田が多かったことから村名が付けられたという(新撰美濃志)。平野庄にさしかかった阿仏尼は「みちいとわろくて、人かよふべくもあらねば、水田のおもをぞさながらわたりゆく」と記している(十六夜日記)。応安五年(一三七二)一一月一〇日の幸衛門売券(龍徳寺文書)によると、四反大の地(坪付は「これやす名内といつめ、四郎大郎かいと」とある)の売主幸衛門は「平野庄本庄保田村」の住人であった。その後も龍徳りようとく(現揖斐郡池田町)には当村にかかわる売券があり、年月日未詳の龍徳寺々領目録控(同文書)には「拾五貫文 (平野) 田村」とある。

田村
たむら

[現在地名]豊丘村田村

現豊丘村の中部。

嘉暦四年(一三二九)、鎌倉幕府が諏訪社上社五月会頭役を伊那郡伴野ともの庄内の「中針田村・宇久津村・福与・(ママ)嶋・里原・阿嶋・伴野」郷の地頭に命じている(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)が、この中の中針田村が田村であろう。元亀二年(一五七一)三月、武田信玄が秋山信友に命じて大島おおじま(現松川町元大島)の普請に当たらせた時、郡内の諸郷とともに田村郷も人足を徴収された(「武田信玄朱印状」工藤文書)

江戸時代を通じて旗本知久氏領で、村高は天正一九年(一五九一)九四三石余(信州伊奈青表紙之縄帳)

田村
しやくだむら

[現在地名]産山村片俣かたまた 柄杓田ひしやくだ

東は豊後竹田領、西から南にかけて片俣村、北は大利おおり村と接する。柄杓田村とも記される。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(阿蘇家文書)に「一所ひしやく五丁」とみえ、武家方大宮司惟村の代官として周防殿が、「なかゝ」の代官として前二大夫が知行している。同四年八月日の阿蘇郷村并宮地四面内天役注文(同文書)の御用作分に「三百文 のなかまちひしやくの分六反分弁」とあり、当地分を野中のなか(現一の宮町)が弁済している。

田村
ひえだむら

[現在地名]池田町稗田

部子へこ川の支流稗田川と村松むらまつ川の合流点付近にある。東青ひがしあお村の南に位置する。承久の乱後、大野郡阿難祖あどそ(現大野市)に遁入していた滝尾家の先祖が追手探索を恐れて木地師仁右衛門の案内により当地に落着き、村作りをしたと伝える(池田町史)。延宝六年(一六七八)の新検地で田畑九反三畝余、高五・五五石となった。元禄八年(一六九五)の明細帳(内藤家文書)によれば家数七、人数二三で、木地挽や養蚕が盛んであった。

田村
たむら

[現在地名]天理市田町

丹波市村西南に所在。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳に「田村庄」とあり、三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)の「田村庄 山辺郡十一条五里十五坪 高屋」「十二条五里廿五坪 食田」は、現小字高屋たかや食田じきでんに該当する。「大和志」は安康天皇の石上穴穂いそのかみあなほ宮跡について「在田村」とする。

江戸時代を通じて幕府領である。慶長郷帳にみる村高六六八・五六石。うち四四・八八石は山年貢、二石は葭年貢で、葭年貢は福知堂ふくちどう村の古池が葭地であった。

田村
たむら

[現在地名]新田町多村新田たむらしんでん村田むらた市野倉いちのくら

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の南寄りにあたり、地下水の深い乾燥した低台地が広がる。東は小金こがね村、北・東は四軒在家しけんざいけ村、南・西はいち村。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発の際に成立した新田村。村名は元禄郷帳にみえる。元禄一〇年(一六九七)の笠懸野新田絵図(片山家蔵)には四軒在家村と一括されて「四軒在家新田」と記され、民家五軒が描かれる。

田村
ひだむら

[現在地名]本耶馬渓町樋田

山国やまくに川中流域東岸にあり、西の川向いは曾木そぎ村、北は土田つちだ(現三光村)。応永二八年(一四二一)四月二日の屋形諸弘紛失状写(屋形三郎文書)に「一所弐段畠地、樋田より本物之地」とある。小倉藩元和人畜改帳にはみえない。元禄豊前国高帳では高一二二石余で、ヒダと読みを付している。江戸時代後期には宿駅として発達し、例年日田郡代が宿泊しており(伊藤田家文書)、文政一〇年(一八二七)には当村より通船が開通し、奥地の幕府領米が中津下正路の日田しもしようじのひた蔵へ積下ろされるようになった(広瀬家文書)

田村
よもぎだむら

[現在地名]協和町蓬田

常陸・下野の国境にあり、北側は「常陸国風土記」に記される波太はだ岡の丘陵、南は古郡ふるごおり村、西は小栗おぐり村。中世は小栗御厨に属したといわれる(新編常陸国誌)。寛永一三年(一六三六)の常陸国新治郡蓬田村検地帳写(国松家文書)に「田高百弐石弐斗六升八合四勺、畑屋敷高百五拾弐石九斗二升五合六勺、合高二百五拾五石壱斗九升四合、惣反別合三拾四町七反九歩」とあり、「寛文朱印留」には土浦藩領として蓬田村とある。元禄年間(一六八八―一七〇四)に南北に分れ(新編常陸国誌)、元禄郷帳の村高は北蓬田きたよもぎだ村二六一石余、南蓬田村七五石余となる。

田村
たむら

[現在地名]湯浅町田

栖原すはら村の北西に位置し、東は吉川よしかわ村と山を境にして接し、西は海に面する。東西に細長く谷が延び、谷の奥に散在する集落をさとといい、農隙に蜜柑・枇杷など商品作物を栽培。海に沿った集落がはまで漁猟を専業とする(続風土記)。中世には湯浅庄に属し、地名は寛喜三年(一二三一)四月日付の湯浅景基寄進状(施無畏寺文書)に記される施無畏寺の四至のなかに、「限西多坂路」とみえる。このほか施無畏寺文書に多村・田村は散見し、文明三年(一四七一)には藤原宗信が施無畏寺に「田村之内エノキ通」にある一段を寄進している(同年四月三日藤原宗信下地寄進状)

田村
よもぎたむら

面積:八一・〇八平方キロ

津軽半島の東、陸奥湾に臨み、南は青森市、北は蟹田かにた町、西は中山なかやま山脈で北津軽郡中里なかさと町・金木かなぎ町と接する。中山山脈から流れ出る長科ながしな川・阿弥陀あみだ川・蓬田川・瀬辺地せへじ川・広瀬ひろせ川がつくった海沿いの小扇状地に、南から中沢なかざわ・長科・阿弥陀川・蓬田・郷沢ごうさわ・瀬辺地・広瀬の七つの大字が並ぶ。

田村
ひえだむら

[現在地名]桑名市稗田

現桑名市の西部にあり、増田ますだ村の東に位置する。東と南は町屋まちや川に面し、全村平地であるが灌漑用水に恵まれず、星川ほしかわ村から用水を引いている。産土神の春日神社境内から室町時代の五輪塔の一部や小石仏が出土している(桑名市史)。織田信雄分限帳には「弐百貫文 横 ひえ田 下村」とある。文政一〇年(一八二七)の桑名領郷村案内帳には家数二九、人数一五六、牛九とあり、鎮守に天王てんのう権現・春日・薬師・稲荷・山ノ神ほかを記す。

薬師堂とよばれる薬王やくおう寺は古くは天台宗、のち日蓮宗の寺で、江戸時代以前は大規模な寺であったが、織田信長勢に滅ぼされた。

田村
あしだむら

[現在地名]夢前町芦田

塚本つかもと村の北、菅生すごう川左岸に位置する。慶長国絵図に「あし田村」とみえる。正保郷帳では田方一六六石余・畑方七〇石余とあり、この高は枝村古瀬畑こせばた村分を含む。寛文(一六六一―七三)以前に同村は分村し(寛文朱印留)、元禄郷帳では当村の高一二五石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高一四〇石余、反別は田方四町七反余・畑方六町三反余、免五ツ九分、家数三七・人数二〇二。文化一一年(一八一四)の小物成訳書(姫路神社文書)によると茶役・山役・入買役・川運上・楮役・桑役・鉄砲役がある。

田村
ひえだむら

[現在地名]矢板市豊田とよだ

成田なりた村の東に位置し、北部から東部をほうき川が、中央部を川が南東流する。東部を原街道が通る。稗田御厨の遺称地。那須朝隆が江川左岸に稗田城を築いたという。城は沢村七郎満隆の築いた沢村さわむら城とともに那須氏の対塩谷氏の前線地となった。近世はおおむね旗本福原領。那須郡に属した。慶安郷帳では高一四九石余、田方一三一石余・畑方一七石余、元禄郷帳では高一九四石余。

田村
たむら

[現在地名]真壁町田

筑波山北麓にあり、東は山尾やまのお村、西は伊佐々いさざ村。中世は真壁氏の支配下に置かれ、寛喜元年(一二二九)七月一九日の平時幹宛将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)に田村郷の名があり、弘安大田文には「田村十丁」とある。慶長二年(一五九七)に麦田の検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)に「田村(中略)中田四畝十九歩、下田弐反仁畝歩、合仁反六畝廿七歩、右之麦仁石六斗七升、此内三ケ二引合、残テ八斗九升御定納」とある。

田村
たむら

[現在地名]谷和原村田

みなみ村の南にあり、居住区のある台地西辺下を台通だいどおり用水が南流。村域の田村貝塚からは縄文中期の土器・石斧・石棒・石鏃が出土。並木なみき古墳は円墳で直刀・鉄鏃・人骨が出土。「寛文朱印留」によれば河内狭山藩北条氏領であったが、正徳二年(一七一二)土浦藩土屋氏領(谷原上郷組)となり廃藩置県に及ぶ。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には土浦藩領五五四・三五五石と華蔵けぞう院領一五石であった。

田村
たむら

[現在地名]虎姫町田・旭町あさひまち

村の北に位置。北西部を田川が流れる。永享七年(一四三五)七月日の長浜八幡宮奉加帳(東浅井郡志)に「薬師寺田村」とみえる。寛永石高帳では高五五五石余。領主の変遷は中野なかの村に同じ。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数三〇七(男一五七・女一五〇)、うち寺社方八(男五・女三)。「東浅井郡志」によれば宝暦五年(一七五五)彦根藩筋奉行所に領分の縮緬織屋・機数が報告されており、当村を含む四村に三軒・五機あった。

田村
たむら

[現在地名]土浦市田村町

沖宿おきじゆく村の西に位置し、南は霞ヶ浦に臨む。応永一二年(一四〇五)一〇月三日の真言院支配在所注文(税所文書)に「当院支配在所注文 南野庄田村郷」とあり、南野みなみの庄にあって真言院の支配所としてみえる。その後佐竹氏領となり、文禄三年(一五九四)には太閤検地が行われた(土浦市史)。慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田転封に伴い土浦藩領となった。「おだまき」に「手野村、田村、戸崎の三村は地つづきにて草刈薪をとる原野相並びあり、昔いづれの村も境を争い慶長元和時分迄は銭鉄砲を以て闘ふ依てきびしく御制止仰付られ其後は鎌・棒にて闘ふ事常なり」とあり、草・薪確保のため他村との争いをしている。

田村
くつたむら

[現在地名]長南町豊原とよはら 葛田

大井おおい村の北西に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇五石で、幕末まで同様。寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。寛政五年(一七九三)の村明細帳(石橋家文書)では一五町一反余で家数一八・人数九五、溜井二。

田村
といだむら

[現在地名]下部町樋田

三沢みさわ村の北東、西八代台地の南部を開析する樋田川下流に沿う沖積地と山地の緩傾斜地に立地する。村名は用水を樋によって取水したことによるという(甲斐国志)。慶長古高帳に樋田とみえ高二九石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高三二石余。

田村
やりたむら

[現在地名]六郷町鑓田

丸子まるこ川の扇状地上にあり、北は畑屋はたや村、東は金沢東根かねざわひがしね村、西は羽貫谷地はぬきやち(現千畑村)、東から南にかけて六郷高野ろくごうこうや村に接する。「月の出羽路」に一三の湧泉を伝える。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に五〇四石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数一一軒、支郷は神尾かみお村一軒とある。

田村
ひえだむら

[現在地名]熊山町稗田

可真かま川上流域の北方、石蓮寺しやくれんじ(二七一・四メートル)南麓にある。冷え田が多いことから村名が生じたという。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)のカマ庄に「比延村」とみえ、寛永備前国絵図では稗田村として高五七一石余。「備陽記」によれば谷間の集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程五里三町、田畠三六町余、家数七〇・人数四一二、池一二。天保年間の「磐梨郡三組手鑑」では直高九八七石余、蔵入と家臣八名の給地、養林ようりん(一〇〇石)領。

田村
ひえだむら

[現在地名]倉敷市児島稗田町こじまひえだちよう

小川おがわ村の北に位置する。正保郷帳では高七三一石余。享保六年(一七二一)の田畠五〇町九反余、池二五、家数一〇六・人数八七三(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高七三一石余、直高九二五石余で池田和泉の給地、田三九町八反余・畑一二町七反余、池三四、樋四六、井戸二三、石橋四、家数一九一・人数一千一〇〇、馬一・牛一〇八、紺屋・酒屋各二軒、桶屋一〇、大工・木挽・鍛冶各二。

田村
たむら

[現在地名]三和村田

東は鴨井かもい村、西は川浦かわうら村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「藤田分田村 中」とみえ、本納二四六石一斗四升五合・縄高六六二石七斗二升九合、家一六軒・四七人とある。正保国絵図では高九六〇石余。天和三年(一六八三)の検地帳(宮崎文書)によれば田四四町二反四畝余・畑一八町七反一畝余、新田七町四反八畝余。

田村
ならたむら

[現在地名]秋田市下浜楢田

八田はつた村の東一九町、雄物川左岸に位置する。北は小山おやま村、南は下黒瀬しもくろせ(現河辺郡雄和町)と境する。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に八田村の内楢田村と記され、元禄一五年(一七〇二)の出羽国由理郡郷村高辻帳に「無高 八田村之内楢田村」とある。

田村
よもぎだむら

[現在地名]小高町上浦かみうら

東流する宮田みやた川の北岸に位置する。「奥相志」によると、正保年中(一六四四―四八)以降に対岸の上浦村から分村したとされ、「昔元禄以前民家一戸あり、後に上浦邑舘西下に移る。爾来人戸無く、上浦の邑人田圃を耕転す」と記される。

田村
ひだむら

[現在地名]多賀町樋田

大杉おおすぎ村の南、犬上川の東にある。寛永石高帳に高四〇石余とある。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男二五・女二六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「田村」の意味・わかりやすい解説

田村[市] (たむら)

福島県東部の市。2005年3月大越(おおごえ),滝根(たきね),常葉(ときわ),船引(ふねひき)の4町と都路(みやこじ)村が合体して成立した。人口4万0422(2010)。

田村市南西部の旧町。旧田村郡所属。人口5791(2000)。阿武隈高地中央部に位置し,阿武隈川水系の牧野川が中央部を北流する。中心の上大越は16世紀初頭大越顕光の居城が置かれた地で,馬産地としても知られ馬市もたった。葉タバコは江戸時代から松川葉の名で生産され,明治期には宗像利吉らの指導者を生んだ。近年は葉タバコの生産過剰のため,畜産,高冷地野菜に移行してきている。1915年磐越東線が通じ大越駅が設置され,町東部の駒ヶ鼻に産出する石灰石を原料に肥料工場が立地,63年にはセメント工場が操業を始め豊富な石灰石資源の開発が現在も産業の中心となっている。南西端の高柴山はツツジの名所である。

田村市南部の旧町。旧田村郡所属。人口5457(2000)。阿武隈高地のほぼ中央に位置し,東側に同高地最高峰で町名の由来となった大滝根山(1192m)などの山地が連なり,その西麓に標高400m前後の小盆地がひらける。北部を牧野川,南部を夏井川が流れる。中心集落の神俣(かんまた)に1917年磐越東線が通じたため,大滝根山西麓の仙台平の石灰石の採掘が進み,セメントや肥料の生産が盛んになった。近年は電気部品組立て,レンズ研磨などの工業が立地している。1927年に菅谷で入水(いりみず)鍾乳洞(天)が,69年には釜山採石場で新鍾乳洞が発見され,あぶくま洞として一般公開されている。みやげ品となる大理石の加工業も盛ん。

田村市中部の旧町。旧田村郡所属。人口6547(2000)。阿武隈高地中にあり,大滝根山をはじめ標高900m級の山々に囲まれる。地形は起伏が多く,山林原野の占める面積が7割にも及ぶ。中心集落の常葉は,近世には浜通りと中通りを結ぶ都路街道(現,国道288号線)の宿場町として栄えたが,大正年間の磐越東線開通にあたり,鉄道が町を迂回し磐城常葉駅も旧船引町におかれ,その後の発展からとり残される一因となった。中世から馬産が盛んで,三春駒の産地として知られ,山地では製炭も盛んであった。第2次大戦後は葉タバコの栽培中心に移行し,酪農,養蚕,野菜,シイタケなどの複合経営を行う。しかし産業の中心は農林業から商工業へと変化している。

田村市北西部の旧町。旧田村郡所属。人口2万3920(2000)。阿武隈高地中部に位置し,南西は郡山市に接する。町域は移ヶ岳(うつしがたけ)(995m)や黒石山,片曾根山などの残丘と標高400~500mの隆起準平原状の小起伏面からなる。中心集落の船引は中央部を西流する大滝根川の流域にあって,磐越東線が通じ,国道288号線と349号線が交差する阿武隅高地の交通の要地となっている。三春町との境には磐越自動車道の船引三春インターチェンジがある。第2次大戦前は軍馬の産地として知られたが,戦後葉タバコ栽培が盛んになり,県のタバコ試験場が立地し(2006年の統合により,郡山市の県農業総合センターとなる),全国一の生産地となったが,近年は周辺町村同様,米,養蚕,畜産等の複合経営である。船引の大鏑矢(おおかぶらや)神社は坂上田村麻呂が建立したという伝説が残る。〈三春富士〉の名がある片曾根山の山麓には総合福祉センターが設けられている。

田村市東部の旧村。旧田村郡所属。人口3337(2000)。阿武隈高地のほぼ中央に位置する。周囲を五十人山(883m)をはじめとする標高700~900mの山々に囲まれ,山林原野が村域の大半を占める。中心集落は古道(ふるみち)で,郡山市と浜通り中部とを結ぶ旧都路街道(国道288号線)に面する街村である。古くから製炭と馬産が行われ,特に馬産は17世紀に三春藩が優良馬を貸し付けて奨励して以来盛んになった。第2次大戦後は肉牛飼育やパルプ材生産に移行した。農業は米作,葉タバコ栽培,養蚕などの複合経営が行われ,畜産品の加工業も立地。戦後一時,引揚者や入植者により人口が増加したが,高度経済成長期には出稼ぎが増加し,過疎化が進んだ。五十人山一帯は阿武隈高原中部県立自然公園の一部で,ツツジ,スズランが群生する。
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田村 (たむら)

能の曲名。二番目物。修羅物。作者不明。シテは坂上田村丸(さかのうえのたむらまる)の霊。旅の僧(ワキ)が京都の清水寺で気高い花守の童子(前ジテ)から寺の来歴を聞く。昔ある僧が観音のお告げを受け,坂上田村丸を檀那(だんな)と頼んで建立したのがこの寺だという(〈語リ〉)。童子は,夕月に照り輝く満開の桜をめでて,しきりに興じていたが(〈クセ〉),やがて田村堂の中に消え去る。僧が弔いをしていると,夜半に田村丸の霊(後ジテ)が昔の姿で現れ,勅命で鈴鹿(すずか)山の鬼神を討ちに出向いたとき,千手観音の助けがあって敵を全滅したという話を物語る(〈クセ・カケリ・中ノリ地〉)。

 修羅物ではあるが,都の春の叙景と観音の霊験譚が中心になっているので暗さがすこしもない。戦いも勝ち軍(いくさ)の話なので,めでたい能とされている。なお,童子は能では神や仏の化身であるのが普通であり,その点でも修羅物としては特殊な能である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「田村」の意味・わかりやすい解説

田村
たむら

能の曲目。二番目物。五流現行曲。『今昔物語』による。修羅能として扱われるが、他の能とはまったく違った一種の霊験能である。東国の僧(ワキ、ワキツレ)が都の清水(きよみず)寺に参詣(さんけい)する。満開の桜のなかを花守(はなもり)の童子(前シテ)が現れて、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の建立によるこの寺の縁起を語り、月の下の都の名所の数々を教え、田村堂に消える。門前の者(間(あい)狂言)が、僧の求めに清水寺、田村堂のいわれを語る。後シテは坂上田村麻呂の霊。勅命によって鬼神退治に出(い)で立ち、千手観音の力によって鬼神を絶滅したありさまを演じてみせる。古代の武将という姿をとくに強調し、あるいは中国風の扮装(ふんそう)をする演出がある。前段の桜の下に喜戯する風情と、後段のりりしさ、勇ましさがみごとに対比した傑作。

[増田正造]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田村」の意味・わかりやすい解説

田村
たむら

能の曲名。修羅物。世阿弥作ともいう。各流現行。春3月,東国の旅僧 (ワキ〈角帽子,水衣〉) が従僧 (ワキヅレ) を連れ,ほうきを手にした花守の童子 (前ジテ〈童子面,黒頭,水衣〉) から,坂上田村麻呂の願により創建されたという寺の縁起を聞いたり,あたりの名所を教わり,ともに春の宵の風情を楽しむ。童子はやがて田村堂の内陣に姿を消す (中入り) 。門前の者 (間狂言) が寺の縁起を語り,その夜,僧が花の下で読経していると,田村麻呂 (後ジテ〈平太面,黒垂,梨折烏帽子,法被肩脱,半切,太刀〉) が現れて,勅令により鈴鹿山の鬼神を退治したおり,観音の擁護でみごとに成功した様子を活発に物語り,カケリを舞う。『八島』『箙 (えびら) 』とともに勝修羅三番といわれる。『今昔物語集』第 11などを典拠とする。

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世界大百科事典(旧版)内の田村の言及

【坂上田村麻呂】より

…坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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