和束杣(読み)わつかのそま

日本歴史地名大系 「和束杣」の解説

和束杣
わつかのそま

和束川流域の和束郷一帯に比定される南都興福寺領の杣。

和束郷の地域は中央部を西南に和束川が流れ、北方は鷲峰山じゆぶせんに連なる山地南方杣山そまやまともよばれる湯谷ゆや山、東から南にかけては童仙房どうせんぼう(現南山城村)に連なる山地で囲まれる。和束川は和束郷を出る辺りから南流し、木津きづ川との合流点西方瓶原みかのはら(現加茂町)には聖武天皇の時恭仁くに京が造営され、鷲峰山には役小角開基と伝える金胎こんたい寺が古くに創建されている。

山地ではあるが、南方には木津川が流れ、木津川沿いに伊賀街道が通る。また和束川沿いのほそ峠越によって東北方の朝宮あさみや(現滋賀県甲賀郡信楽町)犬打いぬうち峠・殻池からいけ峠で宇治田原うじたわら(現綴喜郡宇治田原町)腰越こしごえ谷越で井手いで(同井手町)に結ばれていた。木津川へは和束川沿い道のほか杣田そまだから南方木屋こや峠を越えて結ばれ、材木積出しの津として木屋浜が古くから発達したという。

当地辺が杣としていつ頃から利用されたかは不明だが、距離的にみて恭仁京造営に当たって材木が切り出されたと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の和束杣の言及

【和束[町]】より

…古く聖武天皇の恭仁(くに)京造営時より,一帯の山は杣(そま)として利用されたものと考えられ,天皇の子安積(あさか)親王の死(744)を悼んだ大伴家持の歌に〈和豆香(わづか)そま山〉の名がみえる(《万葉集》巻三)。和束杣は,のちには興福寺領となっており,源平争乱の際には平氏が兵士や兵粮米を賦課し,杣工らはその停止を訴えている。元弘の乱の際,後醍醐天皇はいったんは〈和束ノ鷲峰山〉に逃れたが〈余リニ山深ク里遠シテ,何事ノ計略モ叶マジキ処〉なので,さらに笠置に遷幸したという(《太平記》巻二)。…

※「和束杣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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