木津川(読み)キヅガワ

デジタル大辞泉 「木津川」の意味・読み・例文・類語

きづ‐がわ〔‐がは〕【木津川】

三重県の鈴鹿すずか山脈南部に発し、京都府南部を流れて八幡やわた市で淀川に注ぐ川。
京都府南端にある市。が東西に流れる。1980年代に京都府・大阪府・奈良県にまたがる関西文化学術研究都市の一部として開発が進み、平成19年(2007)3月、山城町・木津町・加茂町が合併して市制施行。官民の研究機関が多い。人口7.0万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「木津川」の意味・読み・例文・類語

きづ‐がわ‥がは【木津川】

  1. [ 一 ] 上野盆地に発し、京都府南部を流れて淀川に合流する川。三重県上野市以東の上流部は伊賀川と呼ばれる。古来、瀬戸内海から淀川を経由して大和国へ至る水運に利用。巨椋(おぐら)池南岸の水害を避けるため、明治時代に流路が変更された。泉川。
  2. [ 二 ] 大阪市の西部を流れる淀川の分流。江戸時代、廻船の発着場となり、現在は大阪港の補助的役割を果たす。河口付近は重化学工業地帯

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日本歴史地名大系 「木津川」の解説

木津川
きづがわ

淀川の支流。主として京都府南部を流れる大河川。源は伊賀・伊勢の国境にそびえる鈴鹿すずか山脈の南部および布引ぬのびき山地。上流は三重県の上野うえの盆地に集まる柘植つげ川・長田ながた川などの諸川。上野盆地で合流し、盆地北部を西流、三重県阿山あやま郡を過ぎて京都府に入る。相楽郡南山城みなみやましろ村の夢絃むげん峡で大和高原より北流してきた名張なばり川を合流しさらに西流する。同郡木津町西部で流路を北に向け、綴喜郡・久世郡を北流し、八幡やわた橋本はしもと付近で淀川に流入する。全長五二キロ、流域面積一千三〇八平方キロ。

川名は流域によって伊賀いが(夢絃峡まで)笠置かさぎ(相楽郡笠置町付近)かも(同加茂町付近)ともよばれる。また古文献には和訶羅わから(古事記)輪韓わから河・山背やましろ(日本書紀)いずみ(泉の川・泉水川・和泉川とも書かれる。「万葉集」「中右記」など)、鴨川(万葉集)などと記されてきた。また「こつかわ」(「山科家礼記」など)ともよばれている。古くから歌に詠まれ、泉河・鴨川は歌枕でもある。

「古事記」崇神天皇の段に「是に山代の和訶羅河に到りし時、其の建波邇安王、軍を興して待ち遮り、各河を中に挟みて、対ひ立ちて相挑みき、故、其地を号けて伊杼美いどみと謂ふ。今は伊豆美と謂ふなり」とあり、建波邇安王軍と国夫玖命軍とガニの川を挟んで挑み合ったことから伊杼美ともよばれるようになったとする。同様に「日本書紀」崇神天皇一〇年九月の条に「輪韓河」とみえ、泉河への転訛を説いている。

〔水運〕

木津川は古くより近江・山城・大和を結ぶ水上交通路として開かれていたことは、「日本書紀」仁徳天皇三〇年秋九月の条に、

<資料は省略されています>

とあり、皇后が宇治川を下り、山背川をさかのぼり大和に至っている記事からもうかがえる。

平安時代になると権門勢家の重要な交通機関となり、日記などに散見される。寛弘四年(一〇〇七)八月金峯山きんぷせん(現奈良県吉野郡)に参詣した藤原道長は、その「御堂関白記」に「着泉河岸上(仮)屋、大和守所為、即乗舟」(一三日条)、「暁淀乗車、着鴨河精進所」(一四日条)と記す。元永元年(一一一八)閏九月、藤原宗忠は笠置寺(現相楽郡笠置町)参詣に際して、往復ともに木津川を利用している(「中右記」同月二六日、二七日条)。また「愚昧記」仁安三年(一一六八)五月四日、五日条には、四日三条実房が鳥羽とば(現京都市伏見区)から乗舟し、泉木津いずみきづ(現相楽郡木津町)で上陸、奈良に向かい、翌五日に泉木津から乗舟、京都に帰ったことが記される。

また下流宇治川との合流点辺りの淀渡よどのわたり辺りの様子を、清少納言は「枕草子」に「卯月のつごもりがたに、初瀬にまうでて、淀のわたりといふものをせしかば、舟に車かきすゑて、菖蒲・菰などの末のみじかく見えしをとらせたれば、いとながかりけり。


木津川
きづがわ

現在の木津川は、上流の伊賀地方では呼称が変化する。阿山郡大山田おおやまだ坂下さかげの山中に発したさと川は西南流し、名賀郡青山あおやまたき妙楽地みようらくじをへて阿保あお川となり、同町と上野市境の塚原つかはらをへて北に向かった所から長田ながた川、上野市西北部、木根の落合きねのおちあい服部はつとり川を合して西流し京都府相楽そうらく南山城みなみやましろ村で名張なばり川と合するまでを伊賀いが川とおおむね称した。その下流木津川は八幡やわた橋本はしもと付近で淀川に合流する。その間諸川が流入するが、あまヶ岳に発する前深瀬まえふかせ川はもとどりヶ岳に発する川上かわかみ川を合して青山町羽根はねで阿保川に入り、上野市域では東からの比自岐ひじき川・久米くめ川・服部川が長田川に流入し、西側では法花ほつけの山中に発する岩根いわね川が合する。

河道の変遷ははなはだしい。現流路との相違を大略すると、まず阿保川は阿保盆地で南を流れ、阿保の町並は旧河道の自然堤防上に形成されたと考えられる。峡隘の塚原下流八〇〇メートル辺りからは左方へ浸食し、恩城寺おんじようじ地域(現旭ヶ丘町団地)でみごとな河岸段丘を形成し、そのまま北流して、古郡の常福ふるごおりのじようふく寺辺りで西へ曲流した。常福寺が江寄山の山号を称し、「昔ハ河水ノ入江、寺前ニ有」(伊水温故)と記される所以である。常福寺の西方で北流する出屋敷でやしき川を合流して現河道より少し西を流れ、「伊水温故」に「河岸ニ臨、高二丈余ノ巌石アリ、大巌ニ弘法諸仏ノ数ヲ彫付タリ」とある磨崖仏は現河道の西一〇〇メートルほどの小水路の傍らに、半ば埋れてある。


木津川
きづがわ

旧淀川本流の流末における分流の一。指定流路延長八・八キロ。中之島なかのしまの西端近くで土佐堀とさぼり川から分派、西区の中央部を南流して海に入る。上流から昭和しようわ橋・木津川橋・木津川大橋・伯楽はくらく橋・大正橋・大浪おおなみ橋・千本松せんぼんまつ大橋が架かり、大正橋の上流で左岸に道頓堀どうとんぼり川を合せるとともに右岸に尻無しりなし川を分ける。下流から河口にかけての両岸は重化学工業地帯で、河口近くには多くの造船所が立地。こうした関係から比較的大型船が航行するため架橋が制限され、昭和四八年(一九七三)千本松大橋ができるまでは大浪橋下流には橋がなく、左岸の西成にしなり区・住之江区と右岸の大正区との間はもっぱら渡しに頼った。現在も落合上おちあいかみノ渡・落合下ノ渡・千本松渡・木津川渡が大浪橋下流の主要な交通手段である。

江戸時代の木津川は土佐堀川との分岐点雑喉場ざこば(左岸、現西区)を起点に大坂三郷および難波なんば(現浪速区・南区)、木津村(現浪速区・西成区)津守つもり新田(現西成区)の西端を流れ、その流れの中には上流から江之子えのこ島・てら(現西区)月正がつしよう(現浪速区)、難波島(現大正区)があった。

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改訂新版 世界大百科事典 「木津川」の意味・わかりやすい解説

木津川[市] (きづがわ)

京都府南端の市。2007年3月加茂(かも),木津(きづ),山城(やましろ)の3町が合体して成立した。人口6万9761(2010)。

木津川市東部の旧町。旧相楽郡所属。人口1万5607(2005)。笠置山地に連なる丘陵が大部分を占め,西流する木津川沿いに低地が広がり,盆地状をなす。米作を中心に茶,蔬菜,ブドウシイタケの栽培が盛んであり,ふすま紙,壁紙の生産は,全国生産高の3割を占める。伝統産業として加茂焼もある。740-744年(天平12-16)に聖武天皇の恭仁京(くにきよう)が置かれた地で,山城国分寺もあり,その東の銭司(ぜず)は和同開珎を鋳造した鋳銭場のあった所とされる。浄瑠璃寺岩船寺,海住山寺などがあり,訪れる人も多い。JR関西本線,国道163号線が通じる。

木津川市南西部の旧町。旧相楽郡所属。人口3万9129(2005)。北縁を淀川の支流木津川が流れ,南は奈良市に接する。京都と奈良を結ぶ交通の要所にあり,古代から木津川の津が設けられていた。舟運は大正期には衰えたが,現在もJR関西本線と奈良線,片町線が分岐し,近鉄京都線,国道24号,163号線が走る交通の要地である。農業は稲作を中心とし,蔬菜,イチゴの栽培,酪農などが行われ,鹿背山地区の富有柿も有名である。工業では特に市坂地区のボタン製造が盛んで,海外にまで市場を広げている。南部の丘陵地では奈良県にまたがる平城ニュータウンが造成された。相良(さがなか)神社,大智寺,法泉寺など古社寺も多い。
執筆者:

木津川の南岸に臨み,古代において奈良へ運ばれる木材は,宇治津から巨椋(おぐら)池を経て木津川をさかのぼり,木津で陸揚げされた。木津川は古代には泉河と呼ばれ,木津は泉津,泉木津と称され,東大寺をはじめ奈良の寺院はこの地に木屋を設けた。北岸には行基によって泉橋寺が建てられ,橋が架けられたが,《三代実録》には,川の流れが急なため橋梁が破壊されやすく,洪水のたびに通行が不能となったと記している。
執筆者:

木津川市北西部の旧町。旧相楽郡所属。人口8913(2005)。東部は笠置山地につらなる山地で,西流する木津川が大きく曲流して町域の南と,西を画する。天神川,不動川,鳴子川などが東部山地から西流,平地で天井川となって木津川に注ぐ。木津川東岸の丘陵末端には椿井(つばい)大塚山古墳(大塚山古墳)があり,北岸の上狛(かみこま)には泉川(木津川)架橋のとき行基が建立した泉橋(せんきよう)寺(橋寺(はしでら)),《日本霊異記》に名のみえる高麗(こま)寺跡(史)がある。〈狛野〉〈狛のわたり〉とよばれたこの一帯はやがて興福寺領狛野荘となり,室町時代には狛野南荘に狛氏,北荘に椿井氏がおり,応仁の乱や山城国一揆を経るなかで勢力の消長があった。北西部の綺田(かばた)には綺荘があり,同地の蟹満(かにまん)寺は蟹の報恩説話を伝える。江戸時代には皇室領,公家領,幕府領,津藩領などが錯綜した。農林業が主で,たけのこ,シイタケ,ブドウなどの栽培のほか,上狛を中心に茶の集散・加工が盛んである。平尾の和伎(わき)神社は湧出宮(わきでのみや)ともよばれ,2月には居籠(斎籠)(いごもり)祭が行われる。JR奈良線と国道24号線,国道163号線が走る。
執筆者:


木津川 (きづがわ)

三重県の伊賀地方から京都府の南山城地方を流れて淀川に入る川。幹川流路延長89km,全流域面積1663km2。伊勢と伊賀の境界をなす布引山地に源流を発し,前深瀬川,久米川を合わせて上野(伊賀)盆地に入り,柘植(つげ)川,服部川を合わせて西流する。この付近を伊賀川とも呼ぶ。次いで名張川,大和高原から北流する布目川,白砂川,信楽(しがらき)山地からの和束(わつか)川などを合流させ,京都盆地南部に入る。木津川市の旧木津町から河床こう配は緩くなり広いはんらん原を作って北流し,八幡(やわた)市橋本で宇治川桂川と合流して淀川になる。古くは泉河と呼ばれて歌枕となり,また淀川水運の重要な幹線であった。奈良時代には泉木津に平城京諸大寺の木屋が設けられて木材や貨物輸送の基地となり,恭仁(くに)京が木津川の両岸(現在の木津川市の旧加茂町例幣付近)にまたがって建設された。江戸時代には木津,吐師(はぜ),加茂,笠置が河港として栄え,伏見,淀,大坂,尼崎などと舟運で連絡していた。流域の山地は風化しやすい花コウ岩類の岩石からなるため土砂流入が激しく,下流における河床上昇をまねき,洪水を繰り返してきた。とくに1953年に南山城と上野盆地で多数の死者を出す水害が起こり,これを契機に河道改修工事が進み,名張川水系では高山ダム,室生ダム,青蓮寺(しようれんじ)ダムなど治水・利水を目的とした多目的ダムが建設された。名張川水系上流の山地は室生赤目青山国定公園に属し,赤目四十八滝,香落渓(こおちけい),奥香落高原の景勝地がある。
執筆者:


木津川 (きづがわ)

淀川下流の分流の一つで,大阪市西部を流れる。旧淀川の大川につづく土佐堀川とは中之島西端で分かれて西区を貫流し,道頓堀川を合わせ,尻無川を分岐させ,さらに南流して大阪湾に入る。延長11.8km。江戸時代には安治川とともに大坂に入港する諸国廻船の船着場となり,河口付近では加賀屋,恩加島などの新田開発が進んだ。明治後期から着手された大阪港整備工事に伴って,木津川は大阪港の補助的役割を果たす内港となり,1916年に築港地区と木津川を結ぶ木津川運河が完成すると,これに沿って鉄鋼,機械,化学,セメントなどの工場が立地し,さらに第1次大戦後は多くの造船所が木津川左岸に進出し,臨海工業地区が形成された。1958年に工事が始まった大阪南港は,木津川河口の沖合海面を937ha埋め立てたもの。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「木津川」の意味・わかりやすい解説

木津川【きづがわ】

京都府南部を流れる淀川の支流。長さ99km。上流の伊賀川と名張川が合流し木津川となる。木津川市で北流し,京都盆地南部にはんらん原をつくり大山崎で淀川に合する。木津川市から上流は砂の流入が盛んで,洪水の原因となる。はんらん原には条里制遺構がみられ,古くから近江・山城・大和を結ぶ水上交通路として重視された。とくに木材輸送のため津・木屋が置かれていた。
→関連項目井手[町]大阪[市]巨椋池笠置[町]笠置山地加茂[町]木津[町]木津川[市]京都[府]京都盆地久御山[町]住之江[区]精華[町]薪荘田上杣西[区]山城[町]和束[町]

木津川[市]【きづがわ】

京都府南端,木津川沿いの市。2007年3月,相楽郡加茂町,木津町,山城町と合併,市制。南は奈良県に接し,市の中央を木津川が流れる。国道24号線,163号線,関西本線奈良線,片町線,近鉄京都線が通じる交通要地。85.13km2。6万9761人(2010)。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木津川」の意味・わかりやすい解説

木津川(市)
きづがわ

京都府南部にある市。2007年(平成19)相楽(そうらく)郡木津、加茂(かも)、山城(やましろ)の3町が合併して市制施行、木津川市となる。市域は京都・大阪の中心部から30キロメートル圏内にあり、北から東は綴喜(つづき)郡井手(いで)町、相楽郡和束(わづか)町、笠置(かさぎ)町、西は同郡精華(せいか)町、南は奈良県奈良市と接する。北部と南東部に緩やかな山地が連なり、その間を木津川が流れ、流域に平野が広がる。同川は3世紀ごろから交通路として利用され、淀川に合流して瀬戸内と結ばれていた。奈良時代、木津は平城京などの都城建設用木材の陸揚げ港で、水陸交通の接点として栄え、商業地も形成されていた。市名はこの木津に由る。聖武天皇は740年(天平12)、都を平城京から恭仁(くに)京(加茂町地区)に遷し、当地は約4年間都であった。

 その後、当地域は奈良と京都、伊勢、伊賀とを結ぶ街道の要衝として発展。また宇治茶やタケノコなどの主産地として名声を高め、京都、大坂ほか諸都市への農産物供給地として栄えた。江戸時代には木津川の治水事業や農地の拡大などが進められ、立地は現在に近い姿となった。明治時代、水運は衰退し、鉄道や道路の整備が進められた。現在、JR奈良線と近鉄京都線、国道24号が南北に通じ、JR関西本線、国道163号が東西に走る。昭和60年代以降、旧木津町において京都・大阪・奈良3府県にまたがる関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)の建設が進められた。JR片町線は学研都市線の愛称が使用され、先進的な研究施設が設けられた。現在、市域は京都、大阪、奈良のベッドタウンとして人口が急増する一方、茶の栽培、集散加工など大都市近郊の立地条件を生かした近郊農業も盛んである。面積85.13平方キロメートル、人口7万7907(2020)。

[編集部]



木津川(京都府)
きづがわ

淀(よど)川の支流で、京都府南部を流れる川。一級河川。上流は鈴鹿(すずか)山脈に発する柘植(つげ)川や、布引(ぬのびき)山地に発する服部(はっとり)川で、上野盆地で合流し、さらに名張(なばり)川、和束(わづか)川などの水を集めながら笠置(かさぎ)山地の断層谷に沿って京都府南部を西流し、木津川市の旧木津町付近で京都盆地に出て流路を直角に転じて北流し、八幡(やわた)市の北部で淀川と合流する。延長約99キロメートル。旧木津町から上流は風化しやすい花崗岩(かこうがん)地帯を流れるため、花崗岩の砂の流入が多く、河川の勾配(こうばい)が減じる京都盆地では河床に砂が堆積(たいせき)する。そのため、しばしば洪水を生じ、1868年(明治1)の大洪水で久御山(くみやま)町下津屋(しもつや)付近から現在の流路に変わった。1897~1910年の淀川改修工事により、木津川、淀川合流点の整理が行われ洪水の被害は減じた。

 木津川の水運は藤原京造営に際して木材を木津で陸揚げしたのに始まるといわれるが、江戸時代までは十石船が往来し、木津のほかに、笠置、瓶原(みかのはら)の加茂などの船着き場があり、薪炭(しんたん)や近江(おうみ)(滋賀県)の信楽(しがらき)の陶器なども運ばれたが、鉄道の開通と、改修工事による河水の低下で水運は衰退した。

[織田武雄]


木津川(大阪市)
きづがわ

大阪市内を流れる淀川(よどがわ)下流の一分流。北区中之島の西端で西流する安治川(あじがわ)と分かれて南流し、さらに尻無川(しりなしがわ)を分かち大阪湾に注ぐ。延長8.6キロメートル。流路の北半は西区の商業地区を貫流し、沿岸の江之子島には1874年(明治7)から1926年(大正15)まで大阪府庁が置かれた。流路の南半は工業地帯で、右岸の三軒家公園(大正区)付近は、日本最初の近代的紡績工場である大阪紡績会社の跡である。

[前田 昇]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木津川」の意味・わかりやすい解説

木津川
きづがわ

京都府南部を流れる川。淀川水系の一部。三重県西部と奈良県北東部を流れる名張川と伊賀川が,京都府南東端の南山城村で合流し,木津川となる。西流したのち木津からは北方へ向い,八幡市と大山崎町の間の狭隘部で宇治川,桂川と合流し淀川となる。水源から淀川となるまでの全長約 89km。近世には水運が活発で,笠置,加茂,木津は河港としてにぎわい,木材運搬が多かった。上流部では花崗岩の砂礫の流入が多く,下流部では古くからしばしば洪水が発生し,自然堤防や天井川がみられる。

木津川
きづがわ

大阪市内を流れる旧淀川の分流の一つ。中之島の西端,西区土佐堀通りから分流して南流し,河口近くで西に転じて,大正区船町で大阪湾に注ぐ。長さ 10km。上流沿岸には倉庫,運輸施設が並び,下流にいくに従い重化学工場が増し,特に大規模な造船所が多く,木津川造船業地区をなす。

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事典・日本の観光資源 「木津川」の解説

木津川

(三重県)
伊賀のたからもの100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の木津川の言及

【南山城[村]】より

…笠置山地の東部に位置し,村域の大半が山地である。伊賀盆地から西流してきた伊賀川と,大和高原を北流してきた名張川が,中央部の夢絃峡で合して木津川となり,西流して笠置町に入る。近世は大和柳生藩領で,北大河原は木津川舟運の物資集散地であり,京と伊賀を結ぶ街道も通じていた。…

※「木津川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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