和食村(読み)わじきむら

日本歴史地名大系 「和食村」の解説

和食村
わじきむら

[現在地名]鷲敷町和食郷わじきごう

那賀川中流域に位置し、南は北荒田野きたあらたの(現阿南市)。永徳二年(一三八二)と推定される一一月二四日の足利義満御内書(鹿王院文書)にみえる「賀茂和食郷」の遺称地。慶長二年(一五九七)の分限帳に和食がみえ、高四三一石余が山田彦八郎知行分。正保国絵図には和食村とあり、高四二二石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三三九石余・畑方八二石余、芝山・小はへ山と注記される。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高四八六石余。「阿波志」によると水陸田七一町一反余、もと和食原と称していたが、慶長一九年に和食村となったという。西在にしざい・鶴城・川原・時元・南川みなみがわいばらおか八幡原やはたばら北路きたじ・谷の九里と谷三六があり、枝町として和食町・土佐とさ町があった。旧高旧領取調帳では蔵入地高四七五石余、高一石余は三矢国太郎の知行。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)によると人数八二六、うち男四四二・女三八一・社人二・山伏一。


和食村
わじきむら

[現在地名]芸西村和食

南は土佐湾、東は赤野あかの(現安芸市)、西は西分にしぶん村に接する平野部と、赤野川上流の山間部からなる。海岸沿いに砂丘が続き、土佐街道(東街道)が通る。北西に接するうまうえ村を経て香美郡久重山くえやま村に至る道沿いに集落があり、その西側を流れる和食川は北部の山地に発して南流、西分村との境で海に入る。元禄郷帳に「古者下ノ村」と注がある。古代の和食郷の地で、中世は和食庄に含まれていた。室町時代には和食氏が当地金岡かなおか城に拠って和食郷一帯を支配したが、安芸領主安芸氏に滅ぼされ、戦国時代末期まで安芸氏の領地とされた。

天正一七年(一五八九)検地が行われ、長宗我部地検帳では当村と赤野村を含む地は下分和食地検帳として一冊にまとめられる。下分の総地積は一二九町五反一三代五歩、うち直分が一五町五反余、給地は六七町二反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android