日本歴史地名大系 「唐松村」の解説 唐松村からまつむら 岡山県:新見市唐松村[現在地名]新見市唐松新見村の南に位置し、小坂部(おさかべ)川が流れる。小原(おはら)・田津(たづ)・小市(おいち)・位原(くらいばら)・市場(いちば)・山根(やまね)・位田(くらいだ)・川合(かわい)・下宮地(しもみやじ)・上宮地・宮組(みやぐみ)・田元上(たもとしよう)・佐栗(さぐり)・真壁(まかべ)・毛名子(けなご)・灰貝(はいがい)の集落がある。中世には村社(むらこそ)郷に属したとみられ、村社の字名が残る。永正一二年(一五一五)当地は、多治部(たじべ)郷を本拠とする国人多治部氏および三村氏の連合軍と新見庄代官新見氏の抗争の場となり、同年八月から一一月にかけて唐松要害をめぐる争奪戦が繰広げられた。八月には唐松要害は新見勢が守っていたが、九月一三日に落された。さらに一一月二八日の戦いでは唐松要害に拠っていた新見氏方の伊達遠江守父子のほか多数が討取られた(一二月一三日「新見国経書状」東寺百合文書)。この要害は甲籠(こうごめ)城とよばれ、市場の北東山上に城跡がある。庄氏系譜(荘文書)の為資(松山城主)の項によれば、天文(一五三二―五五)頃唐松の伊達隼人は庄氏にくみしており、為資の子藤資の室は上唐松甲籠城主伊達常陸守の女であった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by