島根県出雲市にある神社で、縁結びの神様として知られる
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近代以前の史料類には出雲国の
風土記には杵築大社の次に
当社が鎮座する杵築の地は、弥生時代から農耕祭祀を行うための特別に重要な地域(聖地)とみなされていたようで、寛文五年(一六六五)と六年に当社東方
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島根県出雲市大社(たいしゃ)町に鎮座。古くは天日隅宮(あめのひすみのみや)、天日栖宮(あめのひすのみや)、出雲石垌之曽宮(いわくまのそのみや)、厳神之宮(いつかしのかみのみや)、杵築大社(きつきのおおやしろ)などと呼称され、現在は一般に「いずものおおやしろ」とよばれている。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀(まつ)る。大国主大神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の子で、因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)神話で慈愛深い神として語られているが、少彦名神(すくなひこなのかみ)とともに、この国土を開拓、人々に農耕の方法を教え、また病気その他の災厄から逃れるための医薬や禁厭(まじない)の法を教え、やがて皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨にあたって、この国土を皇孫に譲り、自身は退いて幽事(かくりごと)(あの世の事)をつかさどる大神となった。そこで、天照大神(あまてらすおおみかみ)は大神のために宮殿をつくらせ、子の天穂日命(あめのほひのみこと)に大神を祀らせたのが本社の起源と伝える。さらに『日本書紀』に、崇神(すじん)天皇のとき出雲臣(いずものおみ)の祖出雲振根(ふるね)が事あって大神を祀らなかったとき、丹波(たんば)(兵庫県)の氷上(ひかみ)の人氷香戸辺(ひかとべ)の子に神託があり、神異を示されたので、勅(みことのり)して祭りを行わせたとある。659年(斉明天皇5)出雲国造(くにのみやつこ)に社殿を修築させ、765年(天平神護1)神封61戸をあてた。851年(仁寿1)には従三位(じゅさんみ)、勲八等となり、859年(貞観1)正月に正三位、5月に従二位、867年に正二位に叙している。延喜(えんぎ)の制で名神(みょうじん)大社とされ、以後も朝野の崇敬厚く、出雲国一宮(いちのみや)となる。武家時代に入り源頼朝(よりとも)はその神主家の勢力を抑えることを計りながら、一方では1190年(文治6)正月、剣を奉納するなど崇敬している。1333年(元弘3)後醍醐(ごだいご)天皇が王道再興を祈願して神領を寄進、その後、戦国時代には、出雲国の支配は京極(きょうごく)、尼子(あまご)、毛利(もうり)氏と変わったが、いずれも大社を崇敬し、その神領に大きな変化はなかった。しかし、豊臣(とよとみ)秀吉の文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役(1592、1597)で軍資金調達のため一時縮小されたが、江戸時代には松江藩主松平氏により安定させられていた。1871年(明治4)に官幣大社、1917年(大正6)には勅使参向社とされた。
この大社の祭祀(さいし)は天穂日命の子孫の出雲国造がつかさどることとなっており、古くはその国造は代替りごとに朝廷に参向した。すなわち、新任の国造が朝廷に参向して新任の式をなしたのち、天皇から負幸物(さきおいのもの)を賜り、出雲に帰り潔斎(けっさい)1年ののち上京、神宝、御贄(みにえ)を奉り、神賀詞(かんよごと)を奏上する。そして国に帰り、前年と同様に1年間潔斎したのち、ふたたび上京して献上物を捧(ささ)げ、神賀詞を奏上したうえで、大神の祭祀をつかさどったのである。この出雲国造家は南北朝時代に千家(せんげ)家、北島家に分かれて両家がその神事に携わったが、国造は現代にも続き、古いしきたりを伝えている。すなわち、天穂日命が祭主となったとき、熊野(くまの)大神櫛御気野命(くしみけぬのみこと)から火燧臼(ひきりうす)、火燧杵(ぎね)を授けられ、それより鑽(き)り出した火で潔斎、奉仕したとの伝承により、現在も国造の代替りに「火継(ひつぎ)」または「神火(しんか)相続」という儀式が厳粛に行われている。新国造は前国造の帰幽後ただちに伝来の火燧臼、火燧杵を持ち、松江市八雲(やくも)町の熊野大社へ参向、そこで火継の神事をするのであり、そのとき鑽り出した火は、終生国造邸内の斎火殿(さいかでん)に保存し、潔斎に用いるのである。
本殿はいわゆる大社造(たいしゃづくり)で、現本殿は1744年(延享1)の造営にかかり、国宝に指定されるが、古くは現本殿の数倍の大きさであったと伝える。2004年(平成16)には、本殿と同時期に造営された楼門などの建築群と銅鳥居が一括して国の重要文化財に指定された。例祭は5月14日で、勅使参向があり、また年中72回の祭礼には特殊神事が多い。その代表的なものは、1月1日の大饌(おおみけ)祭、2月17日の祈穀(きこく)祭、3月1日の古伝(こでん)祭、6月1日の涼殿(すずみどの)祭(真菰(まこも)神事)、8月14日夜の神幸(しんこう)祭(身逃(みにげ)神事)、8月15日の爪剥(つまむぎ)祭、陰暦10月11日より17日までの神在(かんあり)祭、11月23日の献穀祭、その夜に古式ゆかしい古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)、11月17日と12月27日の御饌井(みけい)祭などである。
なお、出雲大社は一般庶民の信仰が厚く、縁結びの神、福徳の神として親しまれ、御師(おし)の活動により各地に講が組織されていた。明治時代には、千家家による出雲大社(おおやしろ)教、北島家による出雲教が結成され、現在もそれぞれ布教活動を行っている。
[鎌田純一]
『千家尊統著『出雲大社』(1968・学生社)』
島根県出雲市の旧大社町に鎮座。大国主(おおくにぬし)神をまつる。《延喜式》では名神大社。旧官幣大社。杵築(きづき)大社,杵築社,杵築宮ともいう。古代の出雲では熊野,杵築,佐太,能義の各社が〈大神〉とされていたが,中でも,出雲国造の本拠地である意宇(おう)平野の熊野大社と簸川平野の北西の杵築大社とが,厚い尊信をうけていた。しかし,ヤマト朝廷の出雲制圧は,出雲西部からすすんだので,杵築大社がとくに重視されるようになった。すなわち,初めは,簸川平野をおさえて成長した豪族神門(かんど)氏が,その配下の人々を日置部・海部・鳥取部・神奴部等に編成して,杵築大神の祭料をととのえさせた。神門郡の山間部についても,吉栗山は〈大神の宮材を造る山〉,宇比多岐山は〈大神の御屋〉などとすべて杵築大神の神料を調備するところであり,大神の依代(よりしろ)とされた。さらに7世紀半ば過ぎの斉明朝に,対新羅・唐関係の緊迫したころ,朝廷から修築の命令が出されたが,これは杵築宮の大きな転機となったとみられる。こうした経緯の後に,中央の史局で《古事記》《日本書紀》の編纂がすすむと,その出雲国譲り神話で,この社の起源を語るようになったらしい。すなわち,《古事記》では,国譲りした大国主命のために多芸志(たぎし)の小浜に立派な宮をつくり,櫛八玉(くしやたま)命が膳夫となって神饌を供えたとし,《日本書紀》ではこの宮を天日隅宮(あめのひすみのみや)と呼び天穂日(あめのほひ)命を遣わして司祭者とした,と記している。こうした神話と習合しながらもやや異相を記すのが《出雲国風土記》で,天日栖宮(あめのひすみのみや)は〈天の下造らしし大神(大己貴(おおなむち)神)〉のために出雲の神々が集まって,天津神の構えにのっとって作ったものであり,このとき天御鳥(あめのみとり)命が天下って神宝の盾を作った,と述べている。
律令制下では,山陰道で最大の出雲大社の造営には造出雲社使が派遣されたが,その本殿の建築様式の特異さが出雲大社の名を高めた。それは床下の柱がきわめて長大なもので,970年(天禄1)の《口遊(くちずさみ)》の大屋の誦に〈雲太,和二,京三〉として,出雲大社の神殿は,〈和二〉の大和東大寺大仏殿や,〈京三〉の京の大極殿の高さ12丈(36m余)あるいは15丈よりも大きいといわれた。しかし,のち出雲大社の造営には,出雲国司が国内の社寺権門の荘園に平均に造営料を課すようになったが,1248年(宝治2)の造営時から神殿の規模が縮小された。一方,出雲大社の神主としての国造家が管領する社領の郷村のほか,荘園が幕府や国司から寄進された社領や国造家領も成立したが,鎌倉時代末から室町時代には日御碕(ひのみさき)社と社領争いをくりかえし,国造家も千家・北島両家に分かれて対立した。しかし,この間にも出雲信仰はひろく全国に及んでいった。近世には,社殿の造営は1609年(慶長14)に豊臣秀頼により,67年(寛文7)には将軍徳川家綱によって行われたが,現在の社殿はその次の1744年(延享1)の造営によるもので,いわゆる大社造の代表的な様式を示しており,国宝に指定されている。
→出雲信仰 →出雲神話 →出雲国造
執筆者:門脇 禎二
本殿は,切妻造妻入りで,南面する。平面は一辺が3丈6尺(10.9m)の方形で,桁行・梁間とも2間である。床は高く(約4m),四周に高欄つきの縁をめぐらしている。正面の東の間に板扉を構えて戸口とし,西の間に蔀戸(しとみど)をつって開放できるようにするほかは,三方とも板壁で閉ざされる。正面戸口前の縁先に木階があり,上に切妻造の階隠が斜めにかけてある。内部中央に心の御柱がたち,前面と背面の中央に立つうず柱は隅柱の線よりわずかに外に出ており,棟木をうけるが,棟持柱のなごりであろう(図)。内部は後半の床を高くして上段とし,上段の東の間に内殿を西向きに置いて神座をしつらえる。心の御柱の東に板壁で間仕切りをつくるので,正面戸口から内殿はみえない。屋根は檜皮葺で反りをもつ。棟上に置千木(おきちぎ)と堅魚木(かつおぎ)をおく。全高は約24m,木割りが太く,組物を用いず,素木造で簡素である。現在のものは規模が縮小されたとはいえ,古代の大規模であった社殿の雄大さがしのばれる。大社造は神明造とともに神社建築のもっとも古い形式であって,出雲地方を中心におこなわれた。大社造のもっとも古い遺構は,1583年(天正11)造替の神魂(かもす)神社本殿(国宝,松江市大庭町)である。
執筆者:宮沢 智士
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島根県出雲市大社町杵築(きづき)東に鎮座。式内社・出雲国一宮。旧官幣大社。1871年(明治4)まで杵築大社と称した。祭神は大国主(おおくにぬし)神。「先代旧事本紀」には素戔嗚(すさのお)尊とあり,中世には素戔嗚尊が祭神と考えられていた。大国主神の国譲りののち,多芸志之小浜(たぎしのおばま)に造営された宮を起源とすると伝える。そのときの祠祭者天穂日(あめのほひ)命が出雲国造家の祖。「口遊(くちずさみ)」によれば,神殿は東大寺大仏殿よりも高く,平安時代には神殿転倒の記録がしばしばみえる。11世紀中頃から国司による社領の寄進が増大し,鎌倉時代には社領12郷7浦となり,出雲国内最大の領主となった。出雲を姓とした国造家は南北朝期に千家(せんげ)・北島両氏にわかれ,隔年で神事をつとめたが,明治期以降は千家氏が行っている。近世に社領は大幅に削減され,御師(おし)の活動や富くじが重要な財源となった。1667年(寛文7)に神仏分離と正殿式の社殿復興がなされた。例祭は5月14~16日。本殿のほか,所蔵の秋野鹿蒔絵手箱も国宝,遷宮儀式注進状・後醍醐天皇綸旨(りんじ)は重文。
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…出雲の神,具体的には出雲大社を対象とする信仰。出雲の神,出雲国が,古くから特殊の存在であったことは,いろいろの点から推察される。…
…縁結びには超自然の意志が関係すると考えられており,各地に男女の縁を結ぶとされる神仏があって,良縁祈願がなされている。島根県の出雲大社は農耕神,福神としての性格とともに縁結びの神,仲人の神として知られている。また旧暦10月の神無月には全国の神々が出雲に集まるとされるが,その際,神々は男女の縁を結ぶといわれている。…
…交渉は両三度に及ぶが,ここでのオオクニヌシは生彩のない受動的な神にすぎず,使神の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に対して事代主神(ことしろぬしのかみ),建御名方神(たけみなかたのかみ)(ともにオオクニヌシの子)ともども屈服し,国譲りのことが定まる。その際の条件にオオクニヌシは壮大な社殿に自分をまつることを請いそこに退隠することになったが,これは出雲大社の起源を語ったものである。
[オオクニヌシ像の変遷]
オオクニヌシの祖型としてのオオナムチはスクナビコナと組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。…
… 記紀神話によれば,出雲の国譲りに際し,天照大神は大国主神に対して,日隅宮(ひすみのみや)を建造すべきことを約束し,また瓊瓊杵(ににぎ)尊が日向の高千穂の峯に降臨したとき,これを八衢(やちまた)に迎えた猿田彦神は,地上に降って伊勢の五十鈴河のほとりに退いたが,のちにその地に倭姫命がたどりつき,天照大神の神鏡を鎮祭するに至ったと伝えている。この神話は,のちの出雲大社と伊勢神宮の起源を語るもので,両宮は日本の神社の中で最古のものと考えられた。その後,崇神天皇のときに,大国主神の子大物主神を大和の三輪山にまつり,また倭大国魂神を同国の山辺郡にまつったとあるが,それらは出雲,伊勢につぐ神社であった。…
…この点で流造系の本殿と基本的に性格を異にしており,しかもこれらの固有の形式は造替のときも基本が見失われることなく,古式が尊重され維持されるのを特色とした。
[大社造]
神社の起源に触れる説話や史料は一般にきわめて少ないが,出雲大社は詳しい創立譚をもつ珍しい例である。それによると,この本殿は〈天皇の御殿(みあらか)〉のようにつくられたといい,これの高大さを暗示する表現が多い。…
…島根県北部,簸川(ひかわ)郡の町。島根半島西端から大社湾岸の砂丘地帯に広がる出雲大社の門前町。人口1万6683(1995)。…
※「出雲大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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