喜入郷(読み)きいれごう

日本歴史地名大系 「喜入郷」の解説

喜入郷
きいれごう

鹿児島藩の近世外城の一つ。給黎きいれ郡に所属し、鹿児島城下より七里の地にある(三州御治世要覧)。中世は給黎院と称され、戦国時代初めに喜入氏領となった。文禄四年(一五九五)喜入氏六代久道(季久の子)永吉ながよし(現吹上町)に移封され、大隅国加治木かじきなどを知行していた肝付兼三が入部(諸郷地頭系図)。同年九月三日の兼三宛の伊集院忠棟・本田三清連署知行目録(喜入肝付家文書)に「喜入郡」すなわち喜入郷は惣高三千六二五石余とあり、河辺郡清水きよみず(現川辺町)八五六石余・みや(現同上)五六四石余を合せた計五千四七石余が兼三の知行地とされている。これにより当郷は喜入肝付氏の私領となった。兼三の実父伊集院忠棟(幸侃)は島津氏転覆の野望を抱いたため、慶長四年(一五九九)山城伏見の島津邸で誅殺され、兼三にも類が及んで追放(のち誅殺)となった(新編伴姓肝属氏系譜など)。そのため一族の兼篤が跡を継ぎ、そののち兼武―兼屋―久兼―兼柄―兼加―兼昌―兼般―兼喜―兼両と続いた(薩陽武鑑)。藩政初期の喜入は、上之かみの(上村・上名)下之村(下村・下名)の二ヵ村からなる。寛永(一六二四―四四)末年頃に上之村の北部が瀬々串せせくし、南部が中名なかみようとして、天和元年(一六八一)には下之村の北部が前之浜まえのはま、南部が生見ぬくみとして分村。享保一九年(一七三四)名村から宮坂みやさか村が分村し、各村に庄屋が置かれたという(以上、喜入肝付家文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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