嘉年村(読み)かねむら

日本歴史地名大系 「嘉年村」の解説

嘉年村
かねむら

[現在地名]阿東町大字嘉年上かねかみ・大字嘉年下かねしも

阿武川(松本川)上流の谷間に集落が点在する村で、石見国との境にそびえる十種とくさ峰の北西麓にあたる。東は石見国鹿足かのあし(現島根県)、北は鈴野川すずのがわ(現須佐町)、西は片俣かたまた(現むつみ村)生雲いくも村、南は徳佐とくさ地福じふくの両村に囲まれる大村。奥阿武宰判に属した。

「注進案」は「当村往古は一郷にて候よし、いつの頃よりか上下と相分れ御庄屋も二タ村に被相立申候、村名の事は川根村と申を省きて嘉年と仮名字に仕候よし古老の申伝も有之」と村名の由来を記し、「阿武郡第一の大河萩河(阿武川)水上にて河根といふべくも的然おぼゆ」ともする。

中世には嘉年郷(賀年郷)の名でよばれており、文和元年(一三五二)八月一三日付の大井おおい八幡宮(現萩市)の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」の左座七番に「加年郷」とみえる。また、益成正右衛門家文書(「閥閲録」所収)の文明一一年(一四七九)一一月七日付の大内政弘の益成彦六行重宛知行状には「可令早領知長門国阿武郡賀年郷内五石地仁保加賀守盛安跡百五十五石六斗余之内事 右以人、所宛行也者、早賀年令在城、可全領知之状如件」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報