国分町(読み)こくぶんまち

日本歴史地名大系 「国分町」の解説

国分町
こくぶんまち

[現在地名]仙台市国分町一―三丁目・一番町いちばんちよう四丁目

おお町三丁目と同四丁目を分ける通町とおりまち(奥州街道)の両側町で、東は侍屋敷の東一番ひがしいちばん丁など、西は南よりさかな町・たち町や侍屋敷の本櫓もとやぐら丁などと接する。正保仙台城絵図では西片側より六筋の道が西に延び、七筋目で北の二日ふつか町と境し、安政仙府絵図では八筋目となっている。町並長さは五町で(奥陽名数)、街路幅は三間四尺(仙台市史)

〔由来と規模〕

伊達譜代町ではないが、町方二四町の七番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、大町と並ぶ富裕な町であった。町取立ては二日町が慶長一五年(一六一〇)に成立していることから(奉行申渡状写「伊達氏史料」所収)、同年を下らぬと考えられる。取立時に町人となったのは国分衆と称された国分氏の家臣の一部とされ、同五年の伊達政宗最上陣覚書(伊達家文書)によれば、国分衆として白石縫殿介・北目左兵衛・鶴谷治部・萱場式部・朴沢蔵人・郷六外記など三九人が馬上で参加している。うち萱場は三〇〇石、朴沢は三一〇石など平士として取上げられた者もある(伊達世臣家譜)。商人になったのは一九人とする説があり、創設の頃大町四丁目との境より東に一〇軒、西に九軒の屋敷があったのをとくに十九軒じゆうきゆうけんと称したのもその事情によるという。また慶長五年の伊達政宗代物渡方黒印状(伊達家文書)に「国分日町」とみえ、政宗が同地で馬一一疋を買い、その代金四九貫六〇〇文を渡辺讃岐に支払っているが、城下町方として取立てられる前にしたの陸奥国分寺付近に当町の前身があったと考えられる。

国分町
こくぶちよう

[現在地名]厳原町国分

大手橋おおてばし町の西にある。国府湊の西こうみなとのにしはまから金石かねいし(桜川)の南に開けた一帯で、西は有明ありあけ山の支峰国府岳の麓に及び、東は川を境に今屋敷いまやしきと接する。古代対馬国庁が置かれたことから国府原こうばると称し、海浦を国府浦と称した。西辺の山際奥里おくざとは中世の府中五里の一つ奥里の遺称地。西の山を国府岳と称し、清水しみず山南麓を国府平こうびらと称することを含めて、国分は国府の地である。おお町を中心に奥里・西里にしざとにかけて国衙があったらしい。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「国分町」三二軒とある。元禄元年(一六八八)一二月の火災で「大町・平馬場町・国分町・田平新町」の一帯などが焼失(表書札方毎日記)。文化一〇年(一八一三)四月、伊能忠敬の一行は「国分町」「国分横町」「大名小路」「風回番所」「十王小路」などを測量した(伊能忠敬測量日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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