日本歴史地名大系 「国分町」の解説
国分町
こくぶんまち
〔由来と規模〕
伊達譜代町ではないが、町方二四町の七番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、大町と並ぶ富裕な町であった。町取立ては二日町が慶長一五年(一六一〇)に成立していることから(奉行申渡状写「伊達氏史料」所収)、同年を下らぬと考えられる。取立時に町人となったのは国分衆と称された国分氏の家臣の一部とされ、同五年の伊達政宗最上陣覚書(伊達家文書)によれば、国分衆として白石縫殿介・北目左兵衛・鶴谷治部・萱場式部・朴沢蔵人・郷六外記など三九人が馬上で参加している。うち萱場は三〇〇石、朴沢は三一〇石など平士として取上げられた者もある(伊達世臣家譜)。商人になったのは一九人とする説があり、創設の頃大町四丁目との境より東に一〇軒、西に九軒の屋敷があったのをとくに
国分町
こくぶちよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報