日本歴史地名大系 「府中城下」の解説
府中城下
ふちゆうじようか
〔城下の町割〕
府中の町は天正期(一五七三―九二)の宗義智の時代から整備されたとされるが、宣祖二九年(一五九六)朝鮮王朝の通信正使の黄慎は利時都麻婁から「府中」に到着、「府中の居民僅かに三、四百戸。その余の八郡、居民倶に百余戸に過ぎず。屋廬残破し、家家窮乏、皆芋糠を以つて飯と為す。小将輩と雖へども、亦た全く米飯を喫し得ず。皆言ふ、兵興の後、大軍出入し、以つて此くの如きを致すと云ふ」と記している。その帰途府中の館舎に入り、正使は
寛文二年侍・大小姓・歩行の屋敷は表六間、特権商人の六十人は五間、これ以外の町人は四間、内之者は三間という割付で測量が進められた。馬廻の屋敷は桁間一〇間に入一五間、大小姓屋敷は桁間六間に入一〇間、歩行屋敷は桁間六間に入九間、六十人屋敷は桁間五間に入八間、町人屋敷は桁間四間に入七間となった(長崎県史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報