国恩寺跡(読み)こくおんじあと

日本歴史地名大系 「国恩寺跡」の解説

国恩寺跡
こくおんじあと

[現在地名]亀岡市篠町森

もり南方薬師やくし山にある。江戸時代は浄土宗知恩院の末寺で、明治に入り廃絶した。本尊薬師如来で、森の薬師として霊験が著しかったと伝える。

桑下漫録」所引の「盥魚」に

<資料は省略されています>

とある。延暦一七年(七九八)の坂上田村麻呂草創伝承については、「和漢三才図会」に「太平山国恩寺、在亀山、本尊千手観音、坂上田村将軍守本尊也、有田村甲冑及矢相伝、此矢乃射鈴鹿之凶賊、俗謂千之鏃者是也」と記す。これは本尊を千手観音とするが、「桑下漫録」に「天正年中迄は今の森村の民家を構る地に伽藍有しが、明智光秀毀て城郭の用に足す。亀城に明智門と云有、此国恩寺の門なるよし、今は山に添て五間四面の堂に薬師仏を安置す」とあって、天正(一五七三―九二)頃に光秀により堂舎を解体されたようである。


国恩寺跡
こくおんじあと

[現在地名]鎌倉市山ノ内

東慶とうけい寺の門前にあったらしい。臨済宗。鎌倉尼五山の一つ。寺史の詳細は不明。永徳三年(一三八三)一〇月一日の夢窓疎石三十三回忌仏事注文(県史三)に「諸禅律僧尼寺十七箇所」のうちに寺名がみえる。「殿中以下年中行事」によれば、毎年一月一六日には関東公方に住持が参上し、茶の供応を受けた。天文二〇年(一五五一)九月二〇日の東慶寺黒印状(県史三)に「こくおんちの御事、大といてい(異弟)の事にてせんせんの事く、いんりようへまいらせ候」とあり、天正一六年(一五八八)七月一〇日の北条家朱印状(同書)に記す東慶寺門前の「こくおん寺分した地三くわん四十文」の寺分も同寺蔭涼いんりよう軒が支配している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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