戦国大名。初め長井規秀(のりひで)、のち斎藤利政(としまさ)、晩年入道して道三と号す。北条早雲(そううん)などとともに戦国の梟雄(きょうゆう)といわれ、典型的な下剋上(げこくじょう)の体現者とされる。俗説によれば、山城(やましろ)(京都府)西ヶ岡の松波基宗(まつなみもとむね)の子で、日蓮(にちれん)宗京都妙覚(みょうかく)寺の学僧であったが、還俗(げんぞく)して油商奈良屋に入婿(いりむこ)、山崎屋庄五郎と改名してたびたび美濃(みの)(岐阜県)へ行商にくるうち、学僧時代の同僚で長井長弘の弟常在寺日護(じょうざいじにちご)の推挙で長弘に仕官、西村氏の名跡を継いで西村勘九郎と名のった。やがて、兄政頼(まさより)との守護職相続争いに敗れて失意の土岐頼芸(ときよりのり)に近づき、政頼を追って頼芸を守護とし、さらに長弘を暗殺、長井氏の名跡、ついで守護代斎藤氏の名跡をも冒し、1542年(天文11)には頼芸までも追放して自ら美濃の国主となったと伝える。
この俗説には混同があり、その前半部分は道三の父の事績で、道三の国盗(くにと)りの過程は、実際には道三とその父の2代にわたったことが明らかにされている。妙覚寺学僧で還俗して西村を称したのは実は道三の父新左衛門尉(しんざえもんのじょう)であり、新左衛門尉は守護土岐氏の有力家臣長井氏に出仕してしだいに台頭、長井氏を称し長井氏惣領(そうりょう)と並ぶ実力者に成長する。新左衛門尉は1533年(天文2)死去するが、その子長井規秀(道三)の確実な初見も33年で、同年もしくは34年、道三は長井氏惣領を討ち、35~36年、時の守護土岐二郎(実名未詳)を追放して頼芸を守護とする。37年ごろ守護代斎藤氏の名跡を継いだらしく、斎藤利政と名のり美濃の実権を握ると、やがて52年頼芸をも追放するが、子の義龍(よしたつ)と不和になり、56年(弘治2)4月長良(ながら)川畔に戦って敗死した。織田信長、飛騨(ひだ)の三木自綱(よりつな)はその女婿。
[谷口研語]
『『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』(1980・岐阜市)』
戦国時代の武将。藤原規秀,長井新九郎規秀(のりひで),斎藤左近大夫利政などと名のる。道三は法名。父長井新左衛門尉は,京都の妙覚寺の僧で,還俗して美濃守護土岐氏の家臣長井弥二郎に仕え,西村と名のり土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人にまで出世した。道三は父の死により1533年(天文2)家督をつぎ,翌年長井氏の惣領長井藤左衛門尉景弘を倒した。さらに35年土岐頼芸(よりのり)をかついで,美濃守護土岐次郎頼武追放のクーデタに成功し,美濃国土岐家の実権をにぎった。しかし,国内の土岐・斎藤一族の反抗,それと結ぶ隣国の朝倉・織田氏の国内侵入により国内は混乱をつづけた。52年守護土岐頼芸を追放し,名実ともに美濃国を手中にしたが,2年後みずからも隠退した。56年(弘治2)家督を譲った子義竜と対立し,長良川の合戦に敗れ戦死した。現在岐阜市常在寺にその画像,長良川の河畔にその墓がある。
執筆者:勝俣 鎮夫
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1494/1504~1556.4.20
戦国期の武将。美濃国稲葉山城(現,岐阜市)城主。実名利政。初名長井規秀。山城の商人から身をおこして一代で美濃国主になったといわれるが,父とみられる西村新左衛門尉は,大永年間すでに美濃で活動している。1533年(天文2)はじめて史料上に現れ,35年頃に土岐頼芸(よりなり)を守護に擁立,実権を握ったとみられる。38年以後斎藤氏を称す。朝倉・織田両氏など美濃内外の諸勢力と争ったが,48年織田信長を女婿とし,同盟を結んだ。52年頃,頼芸を近江に追放し,名実ともに美濃国主となった。54年嫡子義竜(よしたつ)に家督を譲るが,これは引退を強要された結果とみられる。のち義竜と武力衝突になり,56年(弘治2)長良川合戦で敗死。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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