六角氏(読み)ろっかくうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「六角氏」の意味・わかりやすい解説

六角氏
ろっかくうじ

近江国(おうみのくに)の守護、戦国大名近江源氏佐々木氏嫡流。鎌倉中期、信綱(のぶつな)の三男泰綱(やすつな)が京都六角堂に館(やかた)を構えたことによる。四男氏信(うじのぶ)は京極(きょうごく)氏を称し、その後両者は佐々木惣領職(そうりょうしき)、近江国守護職をめぐり確執するが、六角氏が一貫して世襲した。南北朝期に氏頼(うじより)は足利尊氏(あしかがたかうじ)につき守護となったが、京極導誉(どうよ)(佐々木高氏)との関係で観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1349~52)に直義(ただよし)方となり、弟信詮(のぶのり)(定詮(さだのり))や、子義信(よしのぶ)があとを継いだ。その後1354年(永和3)には復し、没年(1370)までその任にあった。このとき子満高(みつたか)は幼少で猶子京極高経(たかつね)が後見したが、1377年(天授3・永和3)正式守護となり、将軍義満(よしみつ)に仕え40年近く活躍した。その後、満綱(みつつな)・持綱(もちつな)父子が継いだが、1445年(文安2)持綱の弟時綱(ときつな)に攻められともに自害した。そのあとは同じく弟久頼(ひさより)が継いだが、1456年(康正2)京極氏との抗争のなかで没した。その子高頼(たかより)は幼少にて応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の内乱期(1467~77)を迎え、従兄弟(いとこ)政堯(まさたか)・政信(まさのぶ)あるいは京極持清(もちきよ)・政高(まさたか)父子らと争い、また長享(ちょうきょう)・延徳(えんとく)年間(1487~92)には将軍義尚(よしひさ)・義稙(よしたね)の二度の討征を受け、さらに守護代伊庭(いば)氏の反乱にあったが、これらを乗り越えて戦国大名への基盤をつくった(1520没)。その子定頼(さだより)は将軍義晴(よしはる)を擁立するなど中央政界に進出し、また家臣団の整備など領国支配を完成して戦国期の六角氏の盛期をつくった。彼の没(1552)後は、義賢(よしかた)(のち承禎(じょうてい))・義弼(よしすけ)(のち義治(よしはる))父子が継いだが、浅井氏の圧迫や重臣を暗殺した観音寺(かんのんじ)騒動(1563)などにより急速に衰退し、戦国法の六角氏式目を制定(1567)してまもなく、織田信長上洛(じょうらく)の前に没落した。

[宮島敬一]


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百科事典マイペディア 「六角氏」の意味・わかりやすい解説

六角氏【ろっかくうじ】

近江(おうみ)の守護大名。近江源氏佐々木氏の嫡流。苗字は京都六角堂に屋敷があったことによる。南北朝期に庶流京極氏の台頭で北近江を失い,南近江半国守護として戦国期に至る。はじめ金剛寺城,のち観音寺城を主城とした。応仁・文明の乱後,2度の将軍追討を被るが(六角征伐),その都度勢力を挽回,定頼のときには京都を追われた室町幕府12代将軍義晴を庇護した。しかし領国内では重臣層の離反が顕著となり,1567年《六角氏式目》を制定して支配体制再建を図るが,翌年織田信長の近江進攻で滅亡
→関連項目朝妻足利義稙足利義輝海津嘉吉の土一揆正長の土一揆富樫政親保内商人

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改訂新版 世界大百科事典 「六角氏」の意味・わかりやすい解説

六角氏 (ろっかくうじ)

近江源氏佐々木氏の嫡流。鎌倉初期の惣領佐々木信綱の三男泰綱が祖。屋敷が京都の六角堂にあり,この氏を称した。多少の断絶はあったが,鎌倉時代から戦国時代まで近江国の守護職を務め続けた。南北朝・室町期には北近江に領国を築いた庶流の京極氏や寺社・荘園勢力と対立・合戦を続けるなかで,守護大名の地位を保った。応仁・文明の乱後,高頼は足利義尚の2度の将軍親征(六角征伐),さらに守護代伊庭氏の反乱という領国の危機を脱し,奉行人を根幹とする官僚機構を整備して戦国大名化を成し遂げた。高頼の子定頼の代に六角氏は最盛期を迎え,定頼は室町幕府政治にも深く関与して衰微した幕府を支え,京都を追われた12代将軍義晴を庇護した。定頼の子義賢(承禎)の代になると対外的には江北の戦国大名浅井氏との合戦に連敗し,領国内では1563年(永禄6)多数の重臣が離反し,敵対した観音寺騒動が起こるなどしだいに衰えを見せていく。このころになると重臣層の一揆的結合が顕著に見られ,当主の主従権的支配が制約されるようになる。それを端的に示すのが67年制定の《六角氏式目》である。そして翌年,織田信長の近江侵攻により六角氏は滅亡した。
観音寺城
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「六角氏」の意味・わかりやすい解説

六角氏
ろっかくうじ

鎌倉~室町時代の守護大名。近江の豪族佐々木氏の嫡流。宇多源氏。信綱 (鎌倉時代初期) の子泰綱の流が六角氏,氏信の流が京極氏となった。六角氏の名称は京都の邸が六角にあったことによる。鎌倉時代以降,近江守護職を相承。氏頼のとき足利尊氏に従い,尊氏の弟満高を養子にして将軍の縁者として権勢を誇った。戦国時代初め高頼のとき,9代将軍足利義尚の追討を受けたが,勢力を回復,有力な戦国大名となった。六角氏はのち北近江の京極,浅井氏と戦いを続けたが,永禄 11 (1568) 年義賢,義弼父子が織田信長に敗れて滅亡した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「六角氏」の解説

六角氏
ろっかくし

中世近江国の豪族。宇多源氏佐々木氏の宗家。佐々木信綱の三男泰綱(やすつな)が京都六角東洞院に住み,六角氏を称した。鎌倉時代,同族の京極氏とともに近江半国守護となり,佐々木氏の主流となった。元弘の乱で鎌倉幕府に従って守護職を失ったが,のち足利尊氏についた。室町時代以降,幕府内で重んじられた京極氏に圧迫され,領内では国人領主層の離反に苦しめられた。定頼の代,将軍足利義晴をたすけて勢力を伸ばしたが,1568年(永禄11)織田信長に敗れ滅亡。

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旺文社日本史事典 三訂版 「六角氏」の解説

六角氏
ろっかくし

中世,近江国(滋賀県)の守護大名
宇多源氏出身。近江国佐々木氏の嫡流で,湖北の京極氏と同族。近江南部の半国守護,京都の六角堂に屋敷を構え六角氏を称した。足利氏との関係深く権勢をふるったが,義賢 (よしたか) のとき織田信長に抗し,1570年滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の六角氏の言及

【市】より

…この中心集落は在地武士の城館と結合する場合が多く,尾張国では,16世紀,19の中心集落が,城下市町として,ほぼ4~6kmの間隔で分布して形成されていた。近江国では同じころ,大名六角氏の家臣たちの支配する市が,いくつか見える。九里(くのり)員秀の支配する馬淵市,建部直秀の八日市,嶋郷秀堪の嶋郷(しまのごう)市などが見られるが,これらはかかる市町併存の中心集落であったと見ることができる。…

【近江国】より

…信綱ののち一族は諸家に分かれたが,家督は三男泰綱の系統に伝えられ,近江守護職を世襲した。これが六角氏である。しかし南北朝時代になると,泰綱の弟氏信を祖とする京極氏が台頭した。…

【観音寺城】より

…近江国の戦国大名佐々木六角氏の居城。滋賀県蒲生郡安土町の繖(きぬがさ)山一帯に跡が残る。…

【佐々木氏】より

…承久の乱で定綱の弟経高,嫡子広綱らは後鳥羽上皇方について敗死したが,広綱の弟信綱は幕府方として戦功があり,近江守護に任ぜられ,佐々木,豊浦,羽邇,堅田,朽木の諸荘や栗本北郡の地頭職を拝領し,評定衆にまで加えられ,この後は信綱の系統が佐々木氏の嫡流となった。信綱の後はその子重綱,高信,泰綱,氏信を家祖として大原,高島,六角,京極の4家に分かれ,三男泰綱の六角氏が嫡家として近江守護職を相承した。しかし京極氏に高氏(佐々木道誉)が出ると,足利尊氏の信任を得てその地位を高め,京極氏は室町幕府の侍所を世襲して六角氏の勢威をしのぐに至った。…

【馬淵氏】より

…佐々木氏系図によれば定綱の後裔である広定が初めて馬淵氏を称した。代々近江の守護・戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝時代の初めから室町時代前半にかけては,守護六角氏の守護代として活躍した。とくに広定の曾孫にあたる義綱は,延文・貞治年間(1356‐68)に活躍の跡が顕著であり,六角氏の領国政治を支えた重臣であったことがうかがえる。…

【三上氏】より

…近江国野洲郡三上を本拠とした。代々,近江の守護,戦国大名六角氏の有力家臣で,南北朝期には玄妙が奉行人として活躍した。室町期後半から戦国期の永正年間(1504‐21)ごろまで六角氏領国は守護代伊庭(いば)氏が支えていたが,伊庭氏が2度の反乱で滅びると,六角氏は奉行人体制を確立し,領国支配は奉行人を中心に行われた。…

【目賀田氏】より

…近江国愛知郡目賀田(現,滋賀県愛知郡秦荘町)を本拠としてこの氏を称した。南北朝初期より代々,近江佐々木氏の有力家臣として活躍しているが,早い時期から京極氏に属するものと六角氏に属するものの2家に分かれたらしい。信職(法名玄向)は佐々木高氏(京極道誉)に属し幾多の合戦に戦功をあげた。…

【六角定頼】より

…一方1522年蒲生氏の内紛をおさえ,浅井亮政には25年小谷(おだに)城,31年(享禄4)箕浦,38年小谷城で勝つなど領国を平定し,また奉行人も整備して家臣団を統制した。定頼の裁決は後代においても不変とされ,戦国期六角氏の盛期を作った。【宮島 敬一】。…

【六角氏式目】より

…近江国南半を領した大名六角氏が1567年(永禄10)4月に制定した67ヵ条よりなる分国法。〈義治(よしはる)式目〉とも呼ばれるが,原題は〈置目〉であり,諸伝本には六角義治の署判のものだけでなく,義治とその父六角承禎(じようてい)(六角義賢)の連署のものがあり,当時の実情からいって後者が原形を正しく伝えているので,この名称はふさわしくない。…

※「六角氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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