土黒村(読み)ひじくろむら

日本歴史地名大系 「土黒村」の解説

土黒村
ひじくろむら

[現在地名]国見町土黒

神代こうじろ村の東に位置し、北流する土黒川は東の多比良たいら村境で海に注ぐ。北下原きたしもばる八斗木はつとき西河内にしこうち今出いまいで篠原しのわらなどがある。古代の条里遺構はN四二度Eの方位に東西に五坪ほど、南北に七坪ほどが確認され、土黒条里といわれる。土黒川流域の砂鉄を利用した蹈鞴製鉄が行われ、鞴の羽口や鉄糞が散在している。中世高来東たかくとう郷のうち。「吾妻鏡」建保元年(一二一三)五月一〇日条に日光山別当の但馬法眼弁覚が拝領した「鎮西土黒庄」は当地の可能性がある。文中二年(一三七三)一二月一三日の有馬澄隆田地去状(広福寺文書)に「高来東郷土黒村」とみえ、澄隆は借用した筑後高良こうら(現福岡県久留米市)の如法経料足を現銭で弁済しがたいとして、当村内の給分田地一町を七ヵ年限りで引渡している。この一町のうち「かまた」に五反、「つくた」に三反、「あふちき」に二反であったが、うち「かまた」は現土黒の今出名の鎌田かまたが遺称地である可能性がある。戦国期、有馬氏の家臣に土黒入道がおり(五月一九日「有馬仙岩・同義直・同義純連署書状写」福田文書)、一五六三年(永禄六年)頃、高来の領主仙厳(大村純忠の父)および島原の城と市の殿である島原純茂は大村純忠が領内にポルトガル船を入港させるようにしたことに大いに関心をもち、仙厳は土黒エイキュウFigicuro Yeyquiuをトルレス師のもとに派遣している(フロイス「日本史」)

江戸時代は島原藩領の北目筋に属し、往還筋の篠原名にはキリシタン高札立場があり、札の元の地名が残る。また肥前佐賀藩神代領との境界石杭が置かれた。宮田みやだ名の結城ゆうき(金山城)はキリシタン武将のジョルジュ結城弥平治が居城した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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