日本歴史地名大系 「堀之下村」の解説 堀之下村ほりのしたむら 群馬県:佐波郡赤堀町堀之下村[現在地名]赤堀町堀下(ほりした)市場(いちば)村の南西、粕(かす)川の左岸沖積地に沿った低平な台地に位置。西は粕川を境にして下触(しもふれ)村・五目牛(ごめうし)村、南は上植木(かみうえき)村(現伊勢崎市)。飛地が市場村・五目牛村・西久保(にしくぼ)村にある。寛永二年(一六二五)「勢田郡堀下村」二七七石余が小菅又八郎に与えられた(「徳川家光朱印状」熊谷文書)。寛文郷帳では田方一二七石余・畑方一四六石余・林高一六石余、旗本牧野領。近世後期の御改革組合村高帳では旗本横瀬・牧領など四給、家数五四。 堀之下村ほりのしたむら 群馬県:前橋市堀之下村[現在地名]前橋市堀之下町村域のほとんどは赤城山南麓の丘陵地で、南部の寺沢(てらさわ)川沿いに平地が広がる。北は小泉(こいずみ)村、東は堤(つつみ)村、南は上野(うえの)村、西は上泉(かみいずみ)村・石関(いしぜき)村など。女堀の南にあるので村名がついたという。寛文郷帳に田方一二〇石二斗余・畑方二九石六斗余とある。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば、田九町一反余・畑一三町七反余、家数三二、男六三・女五一、馬七とある。明治一〇年(一八七七)頃の田一四町六反余・畑一七町四反余、家数二七、男七〇・女七六、牡馬一〇・牝馬一、民業は「男ハ総テ農桑ヲ業トシ、女ハ養蚕製糸ヲ業トス」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報