日本歴史地名大系 「堀溝村」の解説 堀溝村ほりみぞむら 大阪府:寝屋川市堀溝村[現在地名]寝屋川市堀溝一―三丁目・堀溝北(ほりみぞきた)町・新家(しんけ)一―二丁目・讃良東(さんらひがし)町・讃良西(さんらにし)町・楠根北(くすねきた)町・楠根南(くすねみなみ)町・萱島東(かやしまひがし)三丁目・昭栄(しようえい)町・大成(たいせい)町高宮(たかみや)村の南、寝屋川左岸に位置する。東西に通る清滝(きよたき)街道沿いに集落がつづく。集落西端の同街道の寝屋川に架かる猪鼻(いのはな)橋の下手は堀溝浜とよばれる船着場であった。北部の讃良(ささら)川沿いの字新家に出郷がある。古くは大和川の分流が流入した深野(ふこの)池(現大東市)の北沿岸にあたり、讃良川・岡部(おかべ)川の流入でできた洲崎の地であったが、宝永元年(一七〇四)の大和川の川違え後大きく変容した。永禄三年(一五六〇)八月一四日三好勢と河内守護代安見直政との合戦の地で、「細川両家記」に「飯盛城より安見方衆取出、堀溝と云処にて合戦して安見方衆討負五十人計討死すと云也、池田衆へ首取也」とある。 堀溝村ほりみぞむら 新潟県:見附市堀溝村[現在地名]見附市堀溝町石地(いしじ)村・庄川(しようがわ)村の東、集落は刈谷田(かりやだ)川右岸の第一段丘上にある。元和五年(一六一九)の堀主膳触書(岩本功氏蔵)では見附組源右衛門触下の村。正保国絵図に高一八〇石余、村松藩領。正徳四年(一七一四)の葛巻組田畑家数覚帳(見附地方史研究会蔵)では田一四町・畑四町五反余、肝煎一・本百姓八・漆守一。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by