山城跡(読み)つちやまじようあと

日本歴史地名大系 「山城跡」の解説

山城跡
つちやまじようあと

[現在地名]東広島市八本松町吉川・八本松町原

吉川よしかわはらの境界にそびえる比高二六〇メートルの急峻な山に築かれた大内氏の山城。山頂に長さ六五メートル・幅二〇メートルの本丸、そこから放射線上に延びる尾根上に三〇近くの郭の遺構がみられ、石垣・空堀一部に残る。北麓に天文二〇年(一五五一)落城した時の戦場という勝負谷しようぶだに地名を残す。

築城時期は不明であるが、本格的に機能するのは、大内氏の東西条とうさいじよう支配の拠点鏡山かがみやま城が大永三年(一五二三)尼子氏に落されて以後のことである。


山城跡
かつらやまじようあと

[現在地名]長野市茂菅

善光ぜんこう寺の西北たたら村の葛山(八一二メートル)頂上にある山城。本丸跡方二五間、二の丸跡東西一〇間、南北三〇間。本丸の東に斥候場跡、その南に東北へめぐって幅六間、長さ一二〇間の馬場跡と伝える平地がある。字蔵屋敷くらやしきからは焼けた米などが出土し、白米城伝説が残る。

弘治二年(一五五六)六月二八日長尾宗心(景虎)から長慶ちようけい寺僧某にあてた書状(歴代古案)に、「去年之事、向旭之要害、取立新地、敵城之上云々」とあるように、同元年長尾景虎があさひ山城攻撃にあたり、向城として構築したものと考えられる。


山城跡
こしきやまじようあと

[現在地名]国府町町屋

稲葉いなば山の南に延びる尾根の先端、甑山(一一〇メートル)にある。安山岩岩盤で形成された険峻な山上にあり、東麓を美歎みたに川が流れ南端ふくろ川と合流し北西に流れており天然の要害となっている。建武四年(一三三七)七月四日の平貞泰注進状写(賜蘆文庫文書所収称名寺文書)によると、幕府から称名しようみよう(現神奈川県横浜市金沢区)領回復の遵行使に指名された平貞泰は当時当城に少人数で籠城して南朝勢と交戦中であった。幕府から遵行使に指名される有力国人が籠城していることからみて、当城は因幡国府の防衛拠点であったと考えられる。また鎌倉期の守護所とのかかわりを推定する説がある。


山城跡
くぬぎやまじようあと

[現在地名]金津町椚・中川

くぬぎの字向山むこうやま中川なかがわの字じようだけの両地籍にまたがる山頂(一二三メートル)の所々に砦らしき跡があり、その東に字穴蔵谷あなぐらだに、南に字敵見山てきみやまが残る。この北麓は清滝きよたき川と権世ごんぜ川の合流点で後山うしろやまの関門にあたり、その北岸前谷松竜まえだにしようりゆう寺付近はかつて帝釈堂口たいしやくどうぐちともよばれて、永正四年(一五〇七)加越国境風谷かざたに峠を越えて侵入した一向一揆勢と朝倉方とが激しく戦った地で、「越前地理指南」は中川村の項に「東ニ一揆籠たる城山の跡アリ」と記している。


山城跡
かずらやまじようあと

[現在地名]裾野市葛山

葛山集落の北西方に位置する山城で、葛山氏による築城と伝えられる。愛鷹あしたか山から東方へ延びた尾根の末端、標高二七〇メートルの通称愛宕あたご山の頂部に頂く東西一七メートル・南北二七メートルの平場を主曲輪とし、その南東脚部には葛山氏の菩提寺といわれる浄土宗仙年せんねん寺がある。同寺裏手の伝葛山氏墓地にはそれぞれ康応元年(一三八九)一〇月一〇日(銘道源)・明徳四年(一三九三)三月(銘性縄禅門)の年紀のある宝篋印塔があり、葛山氏一族のものである可能性も考えられる。仙年寺には末寺景島山依京いきよう寺の縁起で、天文一二年(一五四三)の年紀を有する景島山略縁起が伝わり、同縁起にはこの年に当城が修復されたと記されているが、寛永一〇年(一六三三)刊の松永貞徳の俳句を引用しており、その記述内容については伝承の域を出ない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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