飯盛城(読み)いいもりじょう

百科事典マイペディア 「飯盛城」の意味・わかりやすい解説

飯盛城【いいもりじょう】

大阪府大東市北条(ほうじょう)から四条畷(しじょうなわて)市南野(みなみの)にかけての飯盛山(標高約315m)にあった中世の山城飯盛山城ともいう。河内(かわち)の平野部を眼下に一望する要害で,東高野街道を抑えるのに絶好の位置である。南北朝初期の四条畷合戦のとき,足利方高師直(こうのもろなお)の部将が飯盛山に陣取っているが(《太平記》巻26),当時本格的な城郭が築かれていたかどうかは不明。のち16世紀前期に河内を支配した畠山義英の被官木沢長政が築城して居城。その後河内半国守護畠山在氏(ありうじ)が在城して,北河内の政治的中心地となるが,細川晴元に攻められ落城。次いで三好長慶(ながよし)の持城となり,長慶は本拠を芥川(あくたがわ)城(現,大阪府高槻市)から飯盛城に移したため,以後織田信長の入京まで飯盛城が畿内の中心地となった。長慶が城主の時代,多数の家臣洗礼を受けてキリシタンになっている。山麓に四条畷合戦で死んだ楠木正行(まさつら)の墓や正行以下24人を祀る四条畷神社がある。
→関連項目四條畷[市]高屋城

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改訂新版 世界大百科事典 「飯盛城」の意味・わかりやすい解説

飯盛城 (いいもりじょう)

河内国北部飯盛山にあった山城。飯盛山城ともいう。南北朝内乱史跡の一つ。1347年(正平2・貞和3)攻勢に転じた南朝方楠木正行は,河内・摂津国で幕府方山名時氏・細川顕氏らを破ったので,足利尊氏は執事高師直らを南下させた。翌年1月5日師直は河内国四条に着き,その東方にある飯盛山には,県下野守旗頭とする白旗一揆が布陣した。迎えうつ南朝方は,四条隆資を総大将に,正行らは往生院に着陣,5日早朝,まず四条隆資が飯盛山を攻めて白旗一揆を牽制し,その間に正行が師直の本陣をつこうとした。しかし県下野守らは山を駆け下って正行軍を襲い,県は負傷して師直陣に退いたものの,ついで小旗一揆が駆け下って正行軍の二陣を襲った。正行は師直の首級をねらったもののはたさず,弟正時と刺し違えて自刃した。以上の合戦の経過は,《太平記》にくわしい。
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