堀田 正倫
ホッタ マサトモ
- 肩書
- 佐倉藩知事
- 生年月日
- 嘉永4年12月6日(1851年)
- 出生地
- 江戸
- 経歴
- 安政6年佐倉藩11万石の封を襲う。明治元年戊辰戦争の際には、上京して徳川氏のため哀訴したが、佐倉藩は方向曖昧であるとして謹慎を命ぜられた。まもなく許されて帰城し、両総房三州の触頭となる。2年佐倉藩知事に任命され、4年退官後、東京に移住し宮中祇候となった。20年旧領地佐倉に戻り、私立の農事試験場の設立、廃校問題の起った県立佐倉中学校の維持経営など、地方文化の向上、発展に尽した。
- 没年月日
- 明治44年1月11日
- 家族
- 父=堀田 正睦(佐倉藩主)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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堀田正倫 ほった-まさとも
1851-1911 幕末-明治時代の大名,華族。
嘉永(かえい)4年12月6日生まれ。堀田正睦(まさよし)の子。安政6年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主堀田家第2次6代となる。維新後は東京に移住したが,明治23年佐倉にもどり,私立の農事試験場をもうけるなど,地域の発展につくした。伯爵。明治44年1月11日死去。61歳。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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