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堀田正睦 ほった まさよし

美術人名辞典の解説

堀田正睦

下総佐倉城主。初名正篤。号見山。称左源太・相模守・備中守。紀姓。正時の男、兄正愛の嗣。大阪城代。天保12年老中に進み開港説を唱え、将軍の継嗣として一橋慶喜を推し致任す。紀文明公和歌墨蹟がある。元治元年(1864)歿、55才。

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百科事典マイペディアの解説

堀田正睦【ほったまさよし】

幕末の老中首座。見山と号する。下総(しもうさ)佐倉藩主。洋学に傾倒して〈蘭癖(らんぺき)〉と称された。藩政改革に治績をあげ,1855年開港前後の政局では老中首座として対処。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

堀田正睦 ほった-まさよし

1810-1864 江戸時代後期の大名。
文化7年8月1日生まれ。堀田正時の子。義兄の堀田正愛(まさちか)の養子となり,文政8年下総(しもうさ)佐倉藩(千葉県)藩主堀田家第2次5代。天保(てんぽう)12年老中。安政2年再任されて老中首座となり,日米修好通商条約の勅許を朝廷にもとめたが失敗。将軍継嗣問題もからんで罷免され,文久2年蟄居(ちっきょ)を命じられた。元治(げんじ)元年3月21日死去。55歳。初名は正篤。

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朝日日本歴史人物事典の解説

堀田正睦

没年:元治1.3.21(1864.4.26)
生年:文化7.8.1(1810.8.30)
幕末の佐倉藩(千葉県)藩主。父は正時,母は源田光寿の娘。文政8(1825)年藩主となり,奏者番,寺社奉行,大坂城代を経て天保12(1841)年老中となる。水野忠邦を補佐して天保の改革を推進したが挫折,同14年忠邦と共に辞任。この前後藩政改革を行い,勧農政策を進め,また藩校を拡充して成徳書院とし蘭学の導入を図る。世間から蘭癖と称され,佐倉は関東の蘭学の拠点となった。ペリー来航後の安政2(1855)年10月老中に再就。阿部正弘が没した同4年6月以降,名実共に幕政の中枢にあった。同年10月ハリスと面接,日米修好通商条約の草案作成を進め,12月,江戸城にて条約締結の不可避を諸侯に演説する。翌5年2月川路聖謨,岩瀬忠震を連れ上洛,朝廷に条約調印の了承を求めるが失敗。将軍継嗣には徳川慶喜を要望するとの内勅を与えられ,江戸に帰る。その後,慶喜擁立に心を傾け朝幕の融和を図ろうとするが,井伊直弼の大老就任ののちは勢力を失い,6月老中を罷免された。翌6年隠居,文久2(1862)年蟄居を追罰され,佐倉城内に屏居した。

(井上勲)

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世界大百科事典 第2版の解説

ほったまさよし【堀田正睦】

1810‐64(文化7‐元治1)
幕末の老中。佐倉藩主。初名は正篤(まさひろ)。備中守を称する。1825年(文政8)藩主となる。幕政の面では奏者番,寺社奉行,大坂城代,西丸老中を経て,41年(天保12)老中に進んだ。43年老中を辞して帰藩。藩医にオランダ医学を学ばせ,また西洋の兵制を採用し,世間からは〈蘭癖〉と呼ばれた。55年(安政2)再び老中に登用され老中首座となった。正睦は,外国の通商要求を拒絶することは不可能だから,積極的に開港すべきだという見地から,57年(安政4)通商の許可を条文に含んだ日蘭追加条約,日露追加条約を結んだ。

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大辞林 第三版の解説

ほったまさよし【堀田正睦】

1810~1864) 江戸末期の幕府老中。下総しもうさ佐倉藩主。1855年老中首座となり、58年上洛して開国の勅許を求めたが得られず、老中を罷免され、のち蟄居。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

堀田正睦
ほったまさよし

[生]文化7(1810).8. 江戸
[没]元治1(1864).3.21.
江戸時代末期の下総佐倉藩主。老中。相模守正時の子。初名は正篤。号は見山。兄正愛 (まさちか) の養嗣子となり,文政8 (1825) 年佐倉藩を襲封。天保5 (34) 年8月寺社奉行。老中水野忠邦の知遇を受け,同8年大坂城代,老中格,同 12年老中,同 14年辞任。ペリー来航に伴う難局に際し,安政2 (55) 年 10月老中首座となり,開国政策を熱心に推進し,T.ハリスの要求に応じて通商条約調印の勅許を得るため,同5年朝廷の説得に努めたが失敗 (→条約勅許問題 ) ,将軍継嗣問題では大老井伊直弼と意見が合わず,同年6月老中を辞任,隠居。文久2 (62) 年外交の処置不行届をもって蟄居を命じられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

堀田正睦
ほったまさよし
(1810―1864)

幕末の幕府老中。下総国(しもうさのくに)(千葉県)佐倉(さくら)藩主。幼名は左源次(さげんじ)。初名正篤(まさひろ)。相模守(さがみのかみ)のち備中守(びっちゅうのかみ)を称し、見山と号す。文化(ぶんか)7年8月1日、正時(まさとき)の末子に生まれる。兄正愛(まさちか)の嗣子(しし)となって1825年(文政8)佐倉藩11万石の家督を継いだ。1834年(天保5)寺社奉行(ぶぎょう)、1837年大坂城代を経て1841年老中となり、水野忠邦(みずのただくに)の天保(てんぽう)の改革に参与し、1843年辞職して帰藩ののち、藩政改革に尽力した。社倉(しゃそう)の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、蘭学(らんがく)を取り入れて西洋医学をおこすとともに、洋式兵制を採用して「蘭癖(らんぺき)」と評された。ペリー来航後、老中阿部正弘(あべまさひろ)に推されて、1855年(安政2)老中首座となり、外交の難局にあたった。勘定奉行(かんじょうぶぎょう)川路聖謨(かわじとしあきら)や目付岩瀬忠震(いわせただなり)らの有能な開明派官僚を重用してアメリカ領事ハリスとの通商交渉に対処した。1857年、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと、1858年上洛(じょうらく)した。勅許工作は失敗して江戸に帰り、将軍継嗣(けいし)問題では、朝廷に信任のある一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し、朝幕の和解を期した。しかし、突如、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したために、これも失敗し、日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免(ひめん)され、さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉(かど)で蟄居(ちっきょ)を命じられた。元治(げんじ)元年3月21日没。[井上勝生]
『千葉県内務部編『堀田正睦』(1922・千葉県)』

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世界大百科事典内の堀田正睦の言及

【安政の大獄】より

…南紀派と一橋派は,自派の候補者を将軍継嗣として幕政の主導権を握ろうと激しく争った。 58年の初頭,幕府は,前年の末にアメリカ総領事ハリスとの談判で議了した日米修好通商条約調印の勅許を得ようとして,老中堀田正睦(まさよし)を上京させた。斉昭をはじめとする一橋派は,幕府が条約勅許を得ることに成功すれば,将軍継嗣についての朝廷の意向も徳川慶福に定まってしまうであろうとの判断に立ち,勅許をおこなわないよう朝廷に働きかけた。…

【佐倉藩】より

…下総国(千葉県)佐倉に藩庁を置いた藩。江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。譜代大名の入封は07年小笠原吉次(2万8000石)が最初で,以後譜代所領となる。…

【条約勅許問題】より

…しかし,日米修好通商条約の調印問題には国内の反対派を押さえるために勅許を得るべく,57年幕吏を上洛させた。朝廷の調印反対,攘夷の意は強く,このため外交責任者の老中堀田正睦(まさよし)は翌年2月みずから上洛し,国際情勢の変化を説き勅許を奏請したが,朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下した。このため堀田や彦根藩は関白九条尚忠と結んで孝明天皇に翻意を迫り,外交問題の幕府への委任を認めさせたが,攘夷派公卿の猛烈な反対運動の結果,朝議はくつがえり,再度さきの勅諚が下された。…

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