幕末の幕府老中。下総国(しもうさのくに)(千葉県)佐倉(さくら)藩主。幼名は左源次(さげんじ)。初名正篤(まさひろ)。相模守(さがみのかみ)のち備中守(びっちゅうのかみ)を称し、見山と号す。文化(ぶんか)7年8月1日、正時(まさとき)の末子に生まれる。兄正愛(まさちか)の嗣子(しし)となって1825年(文政8)佐倉藩11万石の家督を継いだ。1834年(天保5)寺社奉行(ぶぎょう)、1837年大坂城代を経て1841年老中となり、水野忠邦(みずのただくに)の天保(てんぽう)の改革に参与し、1843年辞職して帰藩ののち、藩政改革に尽力した。社倉(しゃそう)の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、蘭学(らんがく)を取り入れて西洋医学をおこすとともに、洋式兵制を採用して「蘭癖(らんぺき)」と評された。ペリー来航後、老中阿部正弘(あべまさひろ)に推されて、1855年(安政2)老中首座となり、外交の難局にあたった。勘定奉行(かんじょうぶぎょう)川路聖謨(かわじとしあきら)や目付岩瀬忠震(いわせただなり)らの有能な開明派官僚を重用してアメリカ領事ハリスとの通商交渉に対処した。1857年、将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと、1858年上洛(じょうらく)した。勅許工作は失敗して江戸に帰り、将軍継嗣(けいし)問題では、朝廷に信任のある一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し、朝幕の和解を期した。しかし、突如、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任したために、これも失敗し、日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免(ひめん)され、さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉(かど)で蟄居(ちっきょ)を命じられた。元治(げんじ)元年3月21日没。
[井上勝生]
『千葉県内務部編『堀田正睦』(1922・千葉県)』
幕末の老中。佐倉藩主。初名は正篤(まさひろ)。備中守を称する。1825年(文政8)藩主となる。幕政の面では奏者番,寺社奉行,大坂城代,西丸老中を経て,41年(天保12)老中に進んだ。43年老中を辞して帰藩。藩医にオランダ医学を学ばせ,また西洋の兵制を採用し,世間からは〈蘭癖〉と呼ばれた。55年(安政2)再び老中に登用され老中首座となった。正睦は,外国の通商要求を拒絶することは不可能だから,積極的に開港すべきだという見地から,57年(安政4)通商の許可を条文に含んだ日蘭追加条約,日露追加条約を結んだ。同年末にはハリスと日米修好通商条約案を議了し,条約調印の勅許を得るため58年(安政5)正月,みずから上京したが目的を達しえず,4月江戸へ帰った。この間,将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた松平慶永としばしば交際したため,同年6月,大老井伊直弼に老中を罷免された。さらに62年(文久2)には,在任中に失政があったとの理由で幕府から蟄居(ちつきよ)を命ぜられた。
執筆者:小野 正雄
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(井上勲)
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1810.8.1~64.3.21
幕末期の老中。下総国佐倉藩主。父は正時。相模守・備中守。従兄正愛(まさちか)の養子となり1825年(文政8)遺領相続。29年奏者番就任以来,寺社奉行兼帯・大坂城代・西丸老中を勤め,41年(天保12)本丸老中となり天保の改革を支えたが,43年罷免。55年(安政2)阿部正弘の推挙により老中首座となり翌年外国御用取扱。58年アメリカ駐日総領事ハリスの出府・将軍謁見を実現。日米修好通商条約を審議し,勅許をえるために上京するが失敗。直後,井伊直弼(なおすけ)が大老に就任し無勅許調印を行い,正睦は責任を転嫁され罷免。翌年隠居,62年(文久2)蟄居。学問振興のため藩校成徳書院・演武場を設け,蘭学者佐藤泰然を招き私立病院順天堂を開かせた。これにより「西の長崎,東の佐倉」と称されるほど蘭学が興隆した。
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…南紀派と一橋派は,自派の候補者を将軍継嗣として幕政の主導権を握ろうと激しく争った。 58年の初頭,幕府は,前年の末にアメリカ総領事ハリスとの談判で議了した日米修好通商条約調印の勅許を得ようとして,老中堀田正睦(まさよし)を上京させた。斉昭をはじめとする一橋派は,幕府が条約勅許を得ることに成功すれば,将軍継嗣についての朝廷の意向も徳川慶福に定まってしまうであろうとの判断に立ち,勅許をおこなわないよう朝廷に働きかけた。…
…下総国(千葉県)佐倉に藩庁を置いた藩。江戸前期には藩主の移動が激しかったが,1746年(延享3)以降は堀田氏の所領として定着した。1590年(天正18)三浦義次入封(1万石)の後,92年(文禄1)武田信吉(徳川家康の第5子,4万石),1602年(慶長7)松平忠輝(同第6子,5万石)と,佐倉の地は徳川一門の所領として重視された。譜代大名の入封は07年小笠原吉次(2万8000石)が最初で,以後譜代所領となる。…
…しかし,日米修好通商条約の調印問題には国内の反対派を押さえるために勅許を得るべく,57年幕吏を上洛させた。朝廷の調印反対,攘夷の意は強く,このため外交責任者の老中堀田正睦(まさよし)は翌年2月みずから上洛し,国際情勢の変化を説き勅許を奏請したが,朝廷は諸大名の衆議を尽くして再度奏聞せよとの勅諚を下した。このため堀田や彦根藩は関白九条尚忠と結んで孝明天皇に翻意を迫り,外交問題の幕府への委任を認めさせたが,攘夷派公卿の猛烈な反対運動の結果,朝議はくつがえり,再度さきの勅諚が下された。…
※「堀田正睦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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