堀米町(読み)ほりごめまち

日本歴史地名大系 「堀米町」の解説

堀米町
ほりごめまち

[現在地名]佐野市堀米町

唐沢からさわ山山系の南に位置し、西部を佐野川が南流する。南から東に例幣使街道が通り、犬伏いぬぶし宿の一部をなす。東は犬臥いぬぶし町。鎌倉後期のものと推定される動垂弥太郎国光申状(中山法華経寺聖教裏文書)に「下野国堀籠郷」とみえ当地住人の国光は寛喜年間(一二二九―三二)頃下総国を出て諸国を遍歴している。元亨元年(一三二一)一二月日銘をもつ安房国日本にほん(現千葉県安房郡鋸南町)梵鐘は在銘最古の天明鋳物で、佐野庄内の同郷「応竜山天宝禅寺」(現在の天応寺)の旧鐘。永徳二年(一三八二)鎌倉浄妙じようみよう寺に移され、のちに日本寺に転じた。大檀那は中務尉藤原朝臣通義(小野寺通義)と堀籠宮内左衛門尉源有元。字朱雀すざくの堀米城は鎌倉期に有元が築城、南北朝期まで存続したという。有元は南朝方に属し、延元二年(一三三七)越前かなさき(現福井県敦賀市)の合戦で討死している(佐野市史)。建武三年(一三三六)八月六日には「天命」と当地で合戦があった(一二月日「佐野安房一王丸軍忠状」落合文書)。暦応元年(一三三八)六月一八日、佐野庄内の「堀籠郷」を含む二二の地頭職が小野寺顕通に譲られている(「小野寺通氏譲状」小野寺文書)。これ以後、連通・通業・朝通と譲られ、小野寺氏の重代相伝の所領と認識されるようになっていた(応永二七年一一月二〇日「小野寺通業譲状」同文書)。当地は前掲鐘銘などから鎌倉期以来の小野寺氏所領と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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