堂浦(読み)どうのうら

日本歴史地名大系 「堂浦」の解説

堂浦
どうのうら

[現在地名]鳴門市瀬戸町堂浦せとちようどうのうら

明神あきのかみ村の北、四国本島の東端部に位置し、東は小鳴門海峡を隔てて島田しまだ島に向き合う。ただし同島南端部と東部堀越ほりこし付近は堂浦の飛地。大部分山地で、小鳴門海峡沿いの狭い平地部に家が集中し、西部日出ひうで湾付近にも小集落がある。小鳴門海峡沿いに南の明神村境から北の北泊きたどまり浦に道が通る。「鳴門辺集」によれば、檍木三郎左衛門(庄屋岡田氏の祖)が開発者で当初檍木ゆうきうらと称したが、寛正年中(一四六〇―六六)に堂浦と改称したという。慶長二年(一五九七)の分限帳に堂浦とみえ、一三石余が益田内膳丞の知行分。正保国絵図では高五五石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田四一石余・畠一四石余、芝山注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では三六五石余が蔵入地。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高三九六石余。「阿波志」では土田は等中上、陸田一〇〇分の一一、反別二六町四反余。旧高旧領取調帳では高四五七石余すべてが蔵入地。

「鳴門辺集」では家数四〇〇余。文化六年の棟付帳(鳴門市役所蔵)では家数四五五(自分家四〇六、他郷稼・借宅人等四九)、うち寺一・神主一・巫女一・加子四三六。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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