デジタル大辞泉
「鳴門市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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鳴門市
なるとし
面積:一三五・二六平方キロ
県北東端部に位置し、北東は鳴門海峡を隔てて兵庫県の淡路島と対している。北は播磨灘、東は紀伊水道に面し、南は板野郡松茂町・北島町・藍住町、西は同郡板野町に接する。四国本島部と北東の島嶼部からなり、大毛島・高島・島田島と鳴門海峡は瀬戸内海国立公園の東端部に属する。大毛島・高島・島田島と四国本島部との間は小鳴門海峡で隔てられ、大毛島・高島と島田島の間にはウチノ海が広がっている。四国本島の市域北部は阿讃山脈(讃岐山脈)東端部に位置し、標高五三六メートルの大麻山を頂点とし、約六割は山地で覆われている。南部一帯は南端を蛇行しながら東流して紀伊水道に入る旧吉野川(かつての吉野川本流)の河口部に近い北岸平野。河川には阿讃山脈から南流して旧吉野川に注ぐ板東谷川・大谷川・大代谷川・中山谷川、同山脈を北流して播磨灘に注ぐ折野川・櫛木谷川などがあり、旧吉野川河口部からは撫養川が北流して小鳴門海峡との間を結ぶ。播磨灘に面する北灘地方は、山地が海に迫り平地が狭小で、昭和三八年(一九六三)に国道一一号が整備されるまでは陸の孤島的存在であった。旧吉野川北岸平野はそれほど広くはないものの農業地帯で、近世には藍作が盛んであった。気候は瀬戸内気候型で、県南地方の南海気候区より一段と降雨量が少ない。そこで近世初頭に小鳴門海峡周辺部で多くの塩田が開発され、斎田塩とよばれて全国各地に売出された。現在かつての塩田の多くが埋立てられて県営鳴門総合運動公園や工場・住宅団地・新市街地に変化した。撫養町岡崎を起点としていた旧撫養街道にほぼ沿って県道鳴門―池田線が西へ走り、国道一一号が徳島市から市域中央部を北上したのち西へ折れ、北灘地区を西へ貫通する。国道一一号から市域中央部、大毛島、大鳴門橋を経て兵庫県に至る神戸淡路鳴門自動車道が通る。JR高徳線が徳島から市域南西部池谷を経て西へ進み、同駅からは東へJR鳴門線が分れて鳴門駅に至る。市名は鳴門海峡にちなんで付けられた。
〔原始・古代〕
小鳴門海峡海底からニレ科・トネリコ科の化石木に混じって安山岩製石核・縦長剥片・横長剥片・掻器あるいは尖頭器が出土している。化石木の炭素14法による年代測定で約二万年前の前後の年代を示す。海面下四〇メートル以深にあり、地形復原では出土地点は高島―桑島と岡崎の低地部を見下ろす南北方向の尾根鞍部にあたる。大麻町大谷の大谷遺跡、大麻町萩原の光勝院寺内遺跡、大麻町檜の檜遺跡ではナイフ形石器や礫核石器が出土している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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鳴門〔市〕
なると
徳島県北東端,北は播磨灘,東は鳴門海峡,南東部は紀伊水道に面する市。 1947年無養 (むや) ,鳴門,瀬戸の3町と里浦 (さとうら) 村が合体して鳴南 (めいなん) 市となり,同年鳴門市と改称。 55年大津村,56年北灘 (きたなだ) 村,67年大麻 (おおあさ) 村を編入。市北西部は讃岐山脈の東端にあたり,南部は徳島平野に広がる。大毛島,島田島,高島を市域に含む。本州四国連絡道路の大鳴門橋と小鳴門橋が完成し淡路島と陸路で結ばれた。中心市街地は JR鳴門線終点の鳴門駅を中心に東西に延びる。近くに撫養 (むや) 港があり,農産物,家畜,石材,工業製品などが積出されている。かつて盛んだった製塩は現在は全廃され,主産業は製薬などの化学工業となった。農産物はレンコン,スイカなど,水産物はワカメ,サクラダイなどがとれる。観光的には,鳴門の渦潮,鳴門公園,四国八十八ヵ所第1番札所霊山寺,2番札所極楽寺,大麻比古神社など数多くの古社寺がある。土佐泊浦の鳴門の根上りマツは天然記念物。鳴門海峡付近一帯は名勝。北西部の大麻山付近は大麻山県立自然公園,市域周辺の海域は瀬戸内海国立公園に属する。鳴門の製塩用具は重要民俗文化財。 JR高徳線,国道 11号線,28号線が通じるほか,本州四国連絡道路のインターチェンジがある。面積 135.66km2。人口 5万4622(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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