朝日日本歴史人物事典 「塚原昌義」の解説
塚原昌義
幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報