塩竈村
しおがまむら
[現在地名]塩竈市梅の宮・長沢町・今宮町・小松崎・みのが丘・宮町・本町・西町・赤坂・泉ヶ岡・石堂・東玉川町・白萩町・桜ヶ丘・海岸通・港町一―二丁目・中の島・栄町・月見ヶ丘・権現堂・向ヶ丘・白菊町・西玉川町・玉川一―三丁目・野田・南錦町・貞山通一―三丁目・北浜一―四丁目・藤倉一―三丁目・新浜町一―三丁目・新富町・花立町・尾島町・旭町・錦町・南町・香津町・佐浦町・楓町一―三丁目・松陽台一―三丁目・清水沢一―四丁目・舟入一―二丁目・牛生町・芦畔町・大日向町・母子沢町・袖野田町・後楽町・泉沢町・一森山・杉の入一―四丁目・越の浦一―二丁目・青葉ヶ丘、字杉ノ入裏・越ノ浦・庚塚・伊保石・石田
現塩竈市のうち島嶼部(桂島・野々島・寒風沢島)および牛生地区(現多賀城市に属する大代村の一部)を除く全域を占める。東に開ける塩竈湾は平安時代の和歌に塩竈浦・千賀塩竈の名で登場するように、古くから都人に知られた景勝の地であった。広い意味での名勝松島に含まれるが、当初はむしろ塩竈浦のほうが有名で、左大臣源融が塩竈浦の景趣を京に移した河原院(跡地は現京都市下京区)の逸話さえある(伊勢物語)。当時塩竈浦は多賀国府の外港で、官人たちにも馴染みが深かったのであろう。やがて塩竈浦は湾内の小島籬島とともに著名な歌枕となる。また当地には「弘仁式」主税式に神料一万束とある塩竈神が鎮座しており、鎌倉初期には陸奥国留守職に任じられた伊沢(留守)家景の尊崇をうけ、陸奥国一宮とされた。留守氏はやがて同社の神主職・別当職を握るが、これは戦国期まで続いたとみられ、併せて当地をも長く支配した。なお塩竈の地に最初に祀られたのは地主神としての塩竈神であったと考えられるが、それがのち海上交通を支配する神、塩土老翁神とされたのは当地の性格をよく反映している。また同社に伝わる藻塩焼行事は、広く松島湾岸および諸島で発見されている製塩遺跡の存在とともに、地名塩竈の発生が製塩に深くかかわることを示唆している。
〔中世〕
弘安八年(一二八五)家景の嫡孫家広は、相伝所領を子息家政に譲ったが(四月二七日「留守家広譲状」留守文書)、なかに「しほかまのつにさいけ弐宇内、壱宇へたう太郎かあとのさいけ壱う、ひたり又次郎跡在家、ふね壱そう、ひらた」が含まれており、家政から嫡孫家明―嫡子家任―同持家へと相伝された。嘉慶二年(一三八八)持家は本領を嫡子家持に譲るが、塩竈の在家は除いている(二月一八日「留守持家譲状」同文書)。
塩竈村
しおがまむら
[現在地名]水沢市
西町・
南町・
出雲田・
上町・
後田・
表小路・
大畑小路・
大町・
大橋・
大鐘・
川原小路・
搦手丁・
勝手町・
川口町・
釜田・
片子沢・
川端・
吉小路・
北栗林・
久田・
北田・
車田・
虚空蔵小路・
小石田・
斉ノ
神・
桜川・
桜屋敷・
桜屋敷西・
笹森谷地・
新小路・
聖天・
寺領・
堰合・
外谷地・
袖谷地・
田小路・
立町・
大明神・
内匠田・
高屋敷・
鶴淵・
寺小路・
土器田・
二反田・
西光田・
濁川・
西田・
八反田・
日高小路・
日高西・
樋渡・
福原・
堀ノ
内・
前田袋・
町裏・
前谷地・
宮下・
中上野・
西上野・
東上野・
水山・
南大鐘・
見分森・
南矢中・
森下・
柳町・
矢中・
谷地明円・
横町・
蓬田・
足袋針・
竜ヶ
馬場、
天文台通り・
星ガ
丘町・
福吉町・
西上野町・
中上野町・
袋町・
東上野町・
山崎町・
宮下町・
中町・
秋葉町など
北上川の右岸、現水沢市市街地の中心部を占めていた村。水沢とよばれていた地域に近世に入って成立した村で、村名は当地鎮座の塩竈神社に由来する。村域北部に中世以来の水沢城(要害)があり、外堀内の城郭と家中小路、外堀外の家中小路と町人町水沢六町(水沢町)は、郷帳のうえでは塩竈村に含まれるが行政上では村扱いから外され、城主の仙台藩一門留守氏の支配下にあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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