仙台藩(読み)せんだいはん

改訂新版 世界大百科事典 「仙台藩」の意味・わかりやすい解説

仙台藩 (せんだいはん)

陸奥国宮城県)仙台に藩庁を置いた外様大藩。藩主伊達氏で藩祖伊達政宗以下14代。1591年(天正19)政宗が出羽国米沢から玉造郡岩出山に移されたのが初めで,1600年(慶長5)仙台に築城した。所領は宇多郡(福島県)と亘理郡,伊具郡以北の現在の宮城県各郡,および現在の岩手県南部の気仙郡磐井郡,胆沢郡,江刺郡にわたる20郡で58万石であったが,関ヶ原の戦のあと刈田郡が与えられて陸奥60万石の所領が確定,その後34年(寛永11)までに近江国内の1万石,常陸国内の1万石が加えられ62万石となった。実際の内高は100万石を超える。藩政期を通じて地方(じかた)知行制をとり,家臣団への給地はほぼ60万石前後に及んでいる。戊辰戦争に敗れたのちは実高28万石に減封され廃藩に至った。

 土地制度は文禄,慶長,元和の諸検地を経て寛永総検地で確立した。藩政期を通じて石高制ではなく貫高制をとったが,文禄検地で貫高80文につき米1石納と定め,寛永検地で貫高100文につき米1石納に改め,税制,村落制度,知行制の基礎を確定した。52年(承応1)には貨幣納・米納の二本立てを廃し,田方は原則として米納に改めた。家臣は伊達家譜代の臣のほか戦国期に大名であった者を含め新規に召し抱え,これを一門,一家,準一家,一族,宿老,着座,太刀上,召出,平士の家格制によって編成した。70年(寛文10)の侍帳によれば,これに組士を加えた士分3746人,足軽以下4670人,計8416人であったが,軍事上重要な場所に大身の家臣を配置し,城,要害,所,在所の4種に格付けた。城,要害,所は小城下町や町場を形成し,在所には侍屋敷や足軽屋敷が置かれ,約2万4000人にのぼる陪臣が存在した。このため1742年(寛保2)調べによれば全領人口81万8061人のうち武家23%弱,百姓74%弱,町方2.5%で,武家人口が多く,大身の家臣には1万石以上の大名級の者が10名もあって,割拠性の強い構造を形づくった。

 藩政初期には新田開発,北上川流路改修,東廻海運の拠点石巻港造成等を推進し,買米(かいまい)仕法の実施等経済的基礎を固め,支倉常長の遣欧,桃山文化の摂取にもつとめた。しかし家臣団の割拠性の強さは伊達騒動をひき起こし,吉村の享保改革に際しても領内総検地案を撤回させる結果となった。中期以降は財政窮乏の打開策が中心となり,享保改革,宝暦の転法が行われ,しだいに蔵元資本に依存する傾向が強まった。仙台通宝などの鋳銭や銀札の発行もあったが永続せず,97年(寛政9)の大一揆を境に買米制の緩和などを図る一方,大坂の蔵元升屋の財政関与が強化された。城下六仲間の独占による商業統制は国産専売制と結んで農民の商品生産を抑圧し,宝暦・天明・天保の飢饉には大きな打撃を受けた。戊辰戦争にあたって会津藩征討の先鋒を命ぜられたが,この寛大な処置などを主張して奥羽越列藩同盟結成の中心となり,その責任を問われて削封を受け,士族の帰農,俸禄大削減などの改革を行ううち廃藩を迎えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仙台藩」の意味・わかりやすい解説

仙台藩
せんだいはん

陸奥(むつ)国仙台(宮城県)に藩庁を置く領知高62万石の外様(とざま)藩。1591年(天正19)藩祖伊達政宗(だてまさむね)が出羽(でわ)国米沢(よねざわ)から陸奥国岩出山(いわでやま)に入部し、さらに1600年(慶長5)仙台に居城を移し、以来廃藩まで伊達氏14代が続いた。藩領は当初58万石で、1634年(寛永11)確定の62万石は陸奥領21郡の60万石と賄料の近江(おうみ)国内1万石、常陸(ひたち)国1万石で、内高は100万石を超えた。戊辰(ぼしん)戦争(1868)後は28万石となり廃藩に至った。家臣団は伊達氏譜代(ふだい)のほか戦国期の大名級の武士などを新規に召し抱え、直臣8416人(1670年=寛文10)を数え、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上(たちあげ)、召出(めしだし)、平士の家格によって編成されていた。下級の組士は1050人、足軽以下は4670人であった。城下に屋敷を与えられたが、地方知行(じかたちぎょう)制で、大身は、城館の下に小城下町を有する城、要害、町場の所、農村の在所の4種に格付けされた軍事上・治安上の要地にそれぞれ配置され、侍屋敷や足軽屋敷を抱え、陪臣数の総計は約2万4000余人に及んだ。総人口は1742年(寛保2)は81万8061人、1825年(文政8)は68万7802人で、武士人口が他藩に比して多く、町方人口が少ないのを特色とした。

 土地制度は寛永(かんえい)総検地(1640~1643)で確立し、貫高制を採用し、貫高100文につき米1石納で知行高、租税高などを換算した。初期に北上川流路改修や石巻(いしのまき)開港などの領内開発のほか新田開発を進め、買米制を行い江戸廻米(かいまい)に力を入れ最大の財源とした。領内商業は城下大町を中心とする六仲間商人が独占し、在町の直仕入を禁止した。支倉常長(はせくらつねなが)の遣欧、桃山文化の摂取などに始まる藩政も、割拠する重臣の対立から伊達騒動を引き起こし、財政窮乏から藩札の発行や蔵元商人による買米制を行ったが、立て直すことができなかった。戊辰戦争には奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり大削封を受け、士族の帰農や北海道移住などの対応を行いながら廃藩置県を迎えた。歴代藩主は、政宗のあと、忠宗・綱宗・綱村・吉村・宗村・重村・斉村(なりむら)・周宗(ちかむね)・斉宗・斉義・斉邦・慶邦(よしくに)・宗基(むねもと)。1871年(明治4)廃藩、仙台県を経て宮城県に編入された。

[渡辺信夫]


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百科事典マイペディア 「仙台藩」の意味・わかりやすい解説

仙台藩【せんだいはん】

陸奥(むつ)国仙台に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1600年初代伊達政宗(だてまさむね)が仙台城を築き立藩,1613年には交易を求め支倉常長(はせくらつねなが)をローマに遣わした。以降伊達氏13代が在封。領知高約60万〜62万。1663年幼主後見の伊達兵部等による反対勢力の斬罪事件(伊達騒動)が起きた。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟結成の中心となったが政府軍に破れた。
→関連項目青葉城信達騒動青柳館文庫伊達氏伊達騒動宮城[県]陸奥国養賢堂

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仙台藩」の意味・わかりやすい解説

仙台藩
せんだいはん

江戸時代,陸奥国宮城郡仙台地方 (宮城県) を領有した外様大藩。藩主は伊達氏。藩祖政宗の代は 58万 5000石で,玉造郡の岩出山に居城があったが,慶長5 (1600) 年2万石加増,同8年に仙台に移った。同 11年に常陸で1万石,寛永 11 (34) 年に近江に 5000石の加増があり 62万 5000石となったが,その内高は 100万石以上といわれた。それは藩政初期からの新田開発により買米という米の専売制を基調としていたからである。仙台藩では地方知行 (じかたちぎょう) 制を幕末まで継続させ,石高制を用いずに玄米 10石を1貫文とする貫文制を使用していたが,このように旧制度をそのまま残存させ,そのうえ買米制度を設けて享保4 (1719) 年以降,宝暦期 (51~64) 頃まで仙台米によって江戸市場を独占した。しかし,その後は他藩の廻米に押されて藩財政は困窮し,幕末には大坂の蔵元升屋平右衛門の番頭山片蟠桃に藩財政が掌握されてしまう。その間,万治3 (1660) 年綱村は一関藩,岩沼藩各3万石を分立したが,寛文 11 (71) 年,いわゆる伊達騒動のあと,一関藩を廃して旧領に戻した。明治維新のときは,宗基が奥羽越列藩同盟の中心として新政権に反抗したため 28万石に削られ廃藩置県にいたる。江戸城大広間詰。

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藩名・旧国名がわかる事典 「仙台藩」の解説

せんだいはん【仙台藩】

江戸時代陸奥(むつ)国宮城郡仙台(現、宮城県仙台市)に藩庁をおいた外様(とざま)大藩。藩校は養賢(ようけん)堂。豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐の際、秀吉に服属した伊達政宗(だてまさむね)は、1591年(天正(てんしょう)19)に米沢(よねざわ)から玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)に移されたが、1600年(慶長(けいちょう)5)仙台に築城。03年に政宗が入城して仙台藩主伊達氏が成立した。当初は58万石だったが、関ヶ原の戦い徳川家康(とくがわいえやす)について60万石に加増、さらに34年(寛永(かんえい)11)までに、常陸(ひたち)国内に1万石、近江(おうみ)国内に1万石が加えられ、62万石となった。内高(実際の石高)は100万石を超えていたといわれる。当初は新田の開発、北上川の改修、石巻(いしのまき)港造成などを精力的に進めたが、家臣の割拠制が強く、寛文(かんぶん)年間(1661~73年)には御家(おいえ)騒動(伊達騒動)が起きた。中期以降は財政欠乏に苦しんだ。幕末に奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となったが、戊辰(ぼしん)戦争に敗れて28万石に減封された。1871年(明治4)の廃藩置県で仙台県となり、翌年宮城県と改称した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「仙台藩」の解説

仙台藩
せんだいはん

陸奥国仙台(現,仙台市)を城地とする外様大藩。1591年(天正19)伊達政宗が出羽国米沢から入封して成立。以後15代にわたる。藩領は陸奥国21郡と常陸・近江両国で62万石余。領内では貫文制が実施され,1640年(寛永17)の総検地後,1貫文が10石に定められた。平士以上には地方(じかた)知行が与えられ,要害・在所拝領・所拝領という大身の家臣には,陪臣集落を含む広大な所領が与えられた。71年(寛文11)4代綱村の後見人ら伊達一門の対立と,政策をめぐる御家騒動(伊達騒動)が発覚。宝暦期以降,とくに悪化した藩財政再建のため,1784年(天明4)鉄銭(仙台通宝)を鋳造するが失敗。専売制としては買米制がある。詰席は大広間。藩校養賢堂。支藩に一関藩。奥羽越列藩同盟の盟主だったため,1868年(明治元)末に所領を没収されるが,28万石で再興。廃藩後は仙台県となる。

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デジタル大辞泉プラス 「仙台藩」の解説

仙台藩

陸奥国、仙台(現:宮城県仙台市)を本拠地とした外様藩。藩主は伊達氏。仙台城(青葉城)は初代藩主の伊達政宗が築城したもの。幕末には奥羽越列藩同盟の中心で、戊辰戦争に破れ減封。仙台県を経て宮城県となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「仙台藩」の解説

仙台藩
せんだいはん

江戸時代,陸奥国仙台地方を領した外様藩
伊達政宗を初代とする外様大名。石高62万石。幕末の戊辰戦争で米沢藩とともに奥羽越列藩同盟の中心となって戦ったが敗れ,28万石に減封された。

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世界大百科事典(旧版)内の仙台藩の言及

【片倉小十郎】より

…仙台藩伊達氏の重臣。小十郎は世襲名だが景綱(1557‐1615)が著名で,豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進,近世大名としての伊達氏再生を決定づけた。…

【伊達氏治家記録】より

…仙台藩の編年体による正史。伊達輝宗をふくめ政宗以下歴代藩主ごとに編纂。…

【伊達騒動】より

…歌舞伎狂言《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》や山本周五郎の小説《樅(もみ)ノ木は残った》等で有名な仙台藩の御家騒動。寛文事件ともいう。…

【伊達政宗】より

…米沢城主,のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。…

【東廻海運(東回海運)】より

…元和期(1615‐24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。同じころ,仙台藩は北上川を大改修し河口の石巻湊を江戸廻米の積出港とするに及んで,同湊からの仙台・盛岡両藩の江戸廻米(廻米)が本格化した。さらに1625年(寛永2)青森湊が開港し,東廻航路は陸奥湾の諸湊と結ぶようになった。…

【要害】より

…今日の城郭研究においても,城域を居住部分と要害部分に分けて論ずることがある。近世では仙台藩で一国一城の制の下で,仙台城以外の城を要害の名で存続させた事例があるが,これは砦などと同じ用例である。また〈ようがい〉の音が〈ゆうがい〉〈りゅうがい〉に転じて,〈竜ヶ谷〉などの地名になる場合がある。…

※「仙台藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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