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仙台藩 せんだいはん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

仙台藩
せんだいはん

江戸時代,陸奥国宮城郡仙台地方 (宮城県) を領有した外様大藩。藩主は伊達氏。藩祖政宗の代は 58万 5000石で,玉造郡の岩出山に居城があったが,慶長5 (1600) 年2万石加増,同8年に仙台に移った。

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百科事典マイペディアの解説

仙台藩【せんだいはん】

陸奥(むつ)国仙台に藩庁をおいた外様(とざま)藩。1600年初代伊達政宗(だてまさむね)が仙台城を築き立藩,1613年には交易を求め支倉常長(はせくらつねなが)をローマに遣わした。
→関連項目青葉城信達騒動青柳館文庫伊達氏伊達騒動宮城[県]陸奥国養賢堂

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

せんだいはん【仙台藩】

江戸時代陸奥(むつ)国宮城郡仙台(現、宮城県仙台市)に藩庁をおいた外様(とざま)大藩。藩校は養賢(ようけん)堂。豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐の際、秀吉に服属した伊達政宗(だてまさむね)は、1591年(天正(てんしょう)19)に米沢(よねざわ)から玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)に移されたが、1600年(慶長(けいちょう)5)仙台に築城。03年に政宗が入城して仙台藩主伊達氏が成立した。当初は58万石だったが、関ヶ原の戦い徳川家康(とくがわいえやす)について60万石に加増、さらに34年(寛永(かんえい)11)までに、常陸(ひたち)国内に1万石、近江(おうみ)国内に1万石が加えられ、62万石となった。内高(実際の石高)は100万石を超えていたといわれる。当初は新田の開発、北上川の改修、石巻(いしのまき)港造成などを精力的に進めたが、家臣の割拠制が強く、寛文(かんぶん)年間(1661~73年)には御家(おいえ)騒動(伊達騒動)が起きた。中期以降は財政欠乏に苦しんだ。幕末に奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となったが、戊辰(ぼしん)戦争に敗れて28万石に減封された。1871年(明治4)の廃藩置県で仙台県となり、翌年宮城県と改称した。

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世界大百科事典 第2版の解説

せんだいはん【仙台藩】

陸奥国(宮城県)仙台に藩庁を置いた外様大藩。藩主は伊達氏で藩祖伊達政宗以下14代。1591年(天正19)政宗が出羽国米沢から玉造郡岩出山に移されたのが初めで,1600年(慶長5)仙台に築城した。所領は宇多郡(福島県)と亘理郡,伊具郡以北の現在の宮城県各郡,および現在の岩手県南部の気仙郡,磐井郡,胆沢郡,江刺郡にわたる20郡で58万石であったが,関ヶ原の戦のあと刈田郡が与えられて陸奥60万石の所領が確定,その後34年(寛永11)までに近江国内の1万石,常陸国内の1万石が加えられ62万石となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

仙台藩
せんだいはん

陸奥(むつ)国仙台(宮城県)に藩庁を置く領知高62万石の外様(とざま)藩。1591年(天正19)藩祖伊達政宗(だてまさむね)が出羽(でわ)国米沢(よねざわ)から陸奥国岩出山(いわでやま)に入部し、さらに1600年(慶長5)仙台に居城を移し、以来廃藩まで伊達氏14代が続いた。藩領は当初58万石で、1634年(寛永11)確定の62万石は陸奥領21郡の60万石と賄料の近江(おうみ)国内1万石、常陸(ひたち)国1万石で、内高は100万石を超えた。戊辰(ぼしん)戦争(1868)後は28万石となり廃藩に至った。家臣団は伊達氏譜代(ふだい)のほか戦国期の大名級の武士などを新規に召し抱え、直臣8416人(1670年=寛文10)を数え、一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上(たちあげ)、召出(めしだし)、平士の家格によって編成されていた。下級の組士は1050人、足軽以下は4670人であった。城下に屋敷を与えられたが、地方知行(じかたちぎょう)制で、大身は、城館の下に小城下町を有する城、要害、町場の所、農村の在所の4種に格付けされた軍事上・治安上の要地にそれぞれ配置され、侍屋敷や足軽屋敷を抱え、陪臣数の総計は約2万4000余人に及んだ。総人口は1742年(寛保2)は81万8061人、1825年(文政8)は68万7802人で、武士人口が他藩に比して多く、町方人口が少ないのを特色とした。
 土地制度は寛永(かんえい)総検地(1640~1643)で確立し、貫高制を採用し、貫高100文につき米1石納で知行高、租税高などを換算した。初期に北上川流路改修や石巻(いしのまき)開港などの領内開発のほか新田開発を進め、買米制を行い江戸廻米(かいまい)に力を入れ最大の財源とした。領内商業は城下大町を中心とする六仲間商人が独占し、在町の直仕入を禁止した。支倉常長(はせくらつねなが)の遣欧、桃山文化の摂取などに始まる藩政も、割拠する重臣の対立から伊達騒動を引き起こし、財政窮乏から藩札の発行や蔵元商人による買米制を行ったが、立て直すことができなかった。戊辰戦争には奥羽越(おううえつ)列藩同盟の中心となり大削封を受け、士族の帰農や北海道移住などの対応を行いながら廃藩置県を迎えた。歴代藩主は、政宗のあと、忠宗・綱宗・綱村・吉村・宗村・重村・斉村(なりむら)・周宗(ちかむね)・斉宗・斉義・斉邦・慶邦(よしくに)・宗基(むねもと)。1871年(明治4)廃藩、仙台県を経て宮城県に編入された。[渡辺信夫]

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世界大百科事典内の仙台藩の言及

【片倉小十郎】より

…仙台藩伊達氏の重臣。小十郎は世襲名だが景綱(1557‐1615)が著名で,豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進,近世大名としての伊達氏再生を決定づけた。…

【伊達氏治家記録】より

…仙台藩の編年体による正史。伊達輝宗をふくめ政宗以下歴代藩主ごとに編纂。…

【伊達騒動】より

…歌舞伎狂言《伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)》や山本周五郎の小説《樅(もみ)ノ木は残った》等で有名な仙台藩の御家騒動。寛文事件ともいう。…

【伊達政宗】より

…米沢城主,のち仙台城主。仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。…

【東廻海運(東回海運)】より

…元和期(1615‐24)に入ると盛岡藩の蔵米などが三陸諸港から江戸に恒常的に輸送されるようになった。同じころ,仙台藩は北上川を大改修し河口の石巻湊を江戸廻米の積出港とするに及んで,同湊からの仙台・盛岡両藩の江戸廻米(廻米)が本格化した。さらに1625年(寛永2)青森湊が開港し,東廻航路は陸奥湾の諸湊と結ぶようになった。…

【要害】より

…今日の城郭研究においても,城域を居住部分と要害部分に分けて論ずることがある。近世では仙台藩で一国一城の制の下で,仙台城以外の城を要害の名で存続させた事例があるが,これは砦などと同じ用例である。また〈ようがい〉の音が〈ゆうがい〉〈りゅうがい〉に転じて,〈竜ヶ谷〉などの地名になる場合がある。…

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