日本歴史地名大系 「多々良村」の解説 多々良村たたろうむら 佐賀県:多久市多々良村[現在地名]多久市南多久町(みなみたくまち)長尾(ながお) 瓦川内(かわらごうち)裏(うら)山の山麓地で瓦(かわら)河内(ごうち)村とつながる集落。前方は瓦川内川に沿って扇状に田畑が広がる。「丹邱邑誌」の享保一二年(一七二七)の「邑内郷村書出」では長尾村に含まれている。嘉永五壬子仕立郷村図には一四戸が記入されており、多々良分田畑帳(年代不明)には、「田畠畦数、九町四反一畝六歩半、地米三十二石二斗六升六合一勺」となっている。この村には「吉之助目達原(めたばる)仇討」についての伝説がある(神埼郡の→目達原村)。 多々良村ただろうそん 佐賀県:武雄市多々良村[現在地名]武雄市武内町真手野(たけうちまちまての)字多々良現武内町の西部に位置する山間の村。正保絵図に村名がみえる。この地域は室町時代に塚崎(つかざき)庄に属し、塚崎後藤氏の所領であった。それ以前のことはわからない。江戸時代には佐賀藩武雄領。この村の陣の平(じんのひら)山(一七七メートル)には館跡があり、石垣や井戸が残る。 多々良村たたらむら 岐阜県:武儀郡武儀町多々良村[現在地名]武儀町中之保(なかのほ) 多多羅(たたら)中之保川(比根谷)の中流沿いに位置し、西は間吹(まぶき)村。多々羅・多良とも記し、「新撰美濃志」は「ただら」と訓ずる。慶長一〇年(一六〇五)の実蔵坊津保檀那目録案(経聞坊文書)に「たゝら孫助」とみえる。元禄郷帳に「中保多良村」と記され(元禄郡高寄帳は多々良村、明治大学刑事博物館本元禄郷帳は多々羅村)、高七八石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by