日本歴史地名大系 「長尾村」の解説
長尾村
ながおむら
寛永国絵図には長尾庄とあり、長尾庄・
長尾村
ながおむら
- 大阪府:枚方市
- 長尾村
山城国との国境に位置し、東高野街道の支道で山城に通ずる
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
- 千葉県:茂原市
- 長尾村
長尾村
ながおむら
- 京都府:福知山市
- 長尾村
由良川の支流長尾川沿いに位置。地元では「なごう」といいならわす。古代から中世にかけては、山陰道丹後別路が通っていた。近世にも当地を通り、
地名長尾は古く
と詠まれており、また承保大嘗会屏風歌詞に「長尾山多行旅人」とあり、久寿大嘗会のそれには「長尾山紅葉満村」、平治の時のは「長尾山時雨有運調之人馬」、仁安の時は「長尾山瑞雲盈尺」などと題されている(大和絵史研究)。
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
- 福島県:喜多方市
- 長尾村
長尾村
なごむら
長尾村
なごむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
- 兵庫県:小野市
- 長尾村
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
- 佐賀県:多久市
- 長尾村
現南多久町の西方。この集落の北側の丘陵地帯から先土器時代の石器類が多く出土している(長尾松前遺跡)。江戸時代は、伊万里往還(佐賀―伊万里)の宿として発達し、また村を横切る牛津川は多久邑の石炭輸送の重要な河川の一つであった。同川には鯉・鯰の大魚がおり、「鰐瀬の鯰が動けば大雨が降る」ということわざがあった。
「丹邱邑誌」の「郷村」には「長尾村 宿・開田・津留・打越」の集落名がある。また同書の享保一一年(一七二六)の書出に「長尾宿二十五軒」とあり、また「安永二年二月六日二十戸焼失」とある。
長尾村
ながおむら
東流して
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
寛永備中国絵図では高三四六石、備中松山藩領。元和年間(一六一五―二四)以来の新田開発が進み、正保郷帳では高七五四石余とある。延宝二年(一六七四)年貢減免の百姓一揆がおき、新四郎・利兵衛が処刑されている(善昌寺鐘銘)。延宝五年頃には浦手御用をつとめる浦組村々に指定された(「水夫屋敷御除地口書」小野文書)。元禄六年(一六九三)の松山藩水谷家断絶後は幕府領となり、検地後の同八年の旧松山領新高帳(羽場文書)には高二千四六八石余とある。
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
- 岡山県:玉野市
- 長尾村
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
庵原郡に所属。南流する長尾川の左岸沿いに位置し、南は
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
長尾村
ながおむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報