長尾村(読み)ながおむら

日本歴史地名大系 「長尾村」の解説

長尾村
ながおむら

[現在地名]満濃町長尾

土器どき川右岸の平地と、中津なかつ山・しろ山・ねこ山・鷹丸たかまる山の山麓の傾斜地に位置する。中津山の岩谷いわだにから平形銅剣二口が出土し、南麓から城山・鷹丸山の西麓にかけて古墳が多く、現在一三基の横穴古墳が残る。「和名抄」鵜足うた郡長尾郷の遺称地。鎌倉期に一時守護所が置かれ(南海流浪記)、南北朝期に鷹丸山の西の尾根にかな(鷹)まる(「太平記」は西長尾城)、室町期には城山一帯に西長尾城があった。永禄一〇年(一五六七)八月吉日の道者職売券(来田文書)に「長尾之山さと之我々もち分之旦那一円」がみえる。鵜足郡に属した。

寛永国絵図には長尾庄とあり、長尾庄・田淵たぶち佐岡さおかなどを併せて長尾庄として高付され、高九三五石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では長尾村とあって高八七五石余、同一九年の高松領小物成帳には綿二〇〇目とある。貞享高辻帳では朱印高八四五石余。文政九年(一八二六)の高一千二九石余、家数二五六(石居六五・掘立一九一)・人数九七六(男五一二・女四六四)、本百姓一五七・半百姓二五・御林守三・大工三・刀指二・出家四・山伏一・猟師三・紺屋一・鍛冶一、牛一一四・馬四、池三五・出水八、なお文政九年入作高八三石余は金毘羅領や池御料の商人が地主になっていた(「山分村々五人組帳調」西村文書)

長尾村
ながおむら

[現在地名]枚方市長尾〈もと町一―七丁目・とうげ町・西にし町一―三丁目・宮前みやまえ一―二丁目・ひがし町一―三丁目・きた町一―三丁目・荒阪あらさか一―二丁目・播磨谷はりまだに一丁目・家具かぐ町一―五丁目・たに町一―三丁目〉・長尾台ながおだい一丁目・高野道こうやみち一丁目・北山きたやま一丁目・山田池東やまだいけひがし町・藤阪東ふじさかひがし町二丁目

山城国との国境に位置し、東高野街道の支道で山城に通ずる山根やまね街道に沿う。交野かたの郡に属し、南は藤坂ふじさか村、西は招提しようだい村・田口たのくち村。「太平記」巻三一(八幡合戦事付官軍夜討事)に観応三年(一三五二)三月、「和田・楠・紀伊国勢三千余騎、皆荒坂山ヘ打向テ爰ヲ支ント引ヘタレバ」とみえるが、この「荒坂山」を当地に比定する説があり、山城国との境辺りに削平地が残る。

長尾村
ながおむら

[現在地名]多摩区長尾一―七丁目、宮前みやまえ神木しぼく一―二丁目・神木本しぼくほん町一―五丁目・五所塚ごしよづか一―二丁目など

東は上作延かみさくのべ(現高津区)、北は宿河原しゆくがわら村、南は土橋つちはし(現宮前区)、西はたいら(現同区)に接し、隣村と村境が錯雑する。南の丘陵を占める神木と北の多摩川平地の河内こうちに二分される。用水は北方を西から東へ流れるりよう用水を利用。十三本原じゆうさんぼんばらゆきさか大師穴だいしあななどの小字がある。

永禄元年(一五五八)五月一一日北条家朱印状(県史三)に「長尾百姓中」とみえ、恒岡氏および百姓中に宛て撰銭令が発布され、新銭の公示、古銭の使用などが規定されている。

長尾村
ながおむら

[現在地名]三郷村大字ゆたか 上長尾・下長尾

黒沢くろざわ川扇状地の巾下及びあずさ川扇状地上に位置する。初見は、文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)で「長尾上方」とあり、籾三一俵一斗(六貫三〇〇文)を所役している。巾下にあたる上長尾は、黒沢川扇状地の端にあって、かつて湧水や沢水に恵まれ、上総屋敷かずさやしき宮北みやきた平福へいふく寺・栗木下くりのきした西木戸にしきど上手わで中村なかむら三角原さんかくばら堂平どうだいら等から土師器・須恵器が出土している。

長尾村は長尾組の本郷で、組手代の甕左伝次は慶安四年検地に高七〇石を所持する大百姓である。

長尾村
ながおむら

[現在地名]茂原市長尾

渋谷しぶや村の西に位置し、村の南西部を阿久あく川が南流する。平安時代末期から中世には、長尾郷と称されていたと考えられる。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)橘木たちばな(橘木社か)の四至南限として「長尾堺小牧堤」とあり、橘木庄(のちの二宮庄)成立の頃から同庄を構成する一郷として存在していたとみられる。当地のたちばな神社が所蔵する応永一六年(一四〇九)二月九日在銘の鋳銅鰐口(県指定文化財)に「上総国二宮庄長尾郷手千花大明神鰐口」とみえる。

長尾村
ながおむら

[現在地名]福知山市字長尾

由良川の支流長尾川沿いに位置。地元では「なごう」といいならわす。古代から中世にかけては、山陰道丹後別路が通っていた。近世にも当地を通り、行積いつもり野条のじよう雲原くもばら・与謝峠越の、丹後方面への道(加悦街道)がよく利用されている。

地名長尾は古く

<資料は省略されています>

と詠まれており、また承保大嘗会屏風歌詞に「長尾山多行旅人」とあり、久寿大嘗会のそれには「長尾山紅葉満村」、平治の時のは「長尾山時雨有運調之人馬」、仁安の時は「長尾山瑞雲盈尺」などと題されている(大和絵史研究)

長尾村
ながおむら

[現在地名]武豊町馬場ばんば塩田しおた市場いちば下門したもんゲ・小迎こむかい玉貫東たまぬきひがし玉貫西たまぬきにし中山なかやま

東は海に面し、村内を東に流れるいし川を挟んで北は成岩ならわ(現半田市)、南はほり川を境に大足おおあし村に接する。

「寛文覚書」によると、概高一千一七五石余、田五九町五反余・畑一五町二反余、新田元高九石余と見取場の畑八町七反五畝余。家数一〇七、人数八一五。「府志」は長尾城として「岩田果定居之」としているが、「寛文覚書」では「今畑ニ成」としている。

長尾村
ながおむら

[現在地名]喜多方市豊川町とよかわまち沢部さわべ

綾金あやがね村の南に位置する。東は田付たづき川を隔てて荒分あらわけ村、西は能力のうりき(現塩川町)。古くは岩田いわた村と称していたが、いつの頃からか長尾村に改めたという(新編会津風土記)。天文一二年(一五四三)新宮しんぐう熊野社(現熊野神社)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の取組第四番に「長尾」、同一一番に「東長尾」などとみえ、当村も同田楽相撲へ参加していた。

長尾村
なごむら

[現在地名]柳田村長尾ながお

村域西部を町野まちの川が北西流し、南西は鴨川かもがわ村、南は小間生おもう村、西は円山まるやま(現輪島市)。名郷村・名高村とも記され、「なごう」とも発音された。村内に上出かみで・下出・孫曾まごそ(孫三)の字名があるという(鳳至郡誌)正保郷帳では円山村・舞谷まいだに(現輪島市)とともに記され、高三七四石余、田方一七町五反余・畑方七町三反余、新田高一八五石余。承応三年(一六五四)の村御印では高二六八石余、免三ツ九分五厘(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三〇九石、免五ツ二分、小物成は山役九〇匁・漆役二匁、鳥役二匁(出来)がある(三箇国高物成帳)

長尾村
なごむら

[現在地名]内浦町長尾

白丸しろまる村の南にあり、南東部は海岸部に集落が営まれる。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「永□」とあるのが当地とみられ、遊佐氏の知行地であった。正保郷帳に村名がみえ、高二〇三石余、田八町五反余・畑五町余。承応三年(一六五四)の能登奥両郡収納帳では草高二〇三石余、免三ツ九歩。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二三四石・新開高四石、免はいずれも五ツ、小物成は山役六〇匁、猟船櫂役五五匁(うち四〇石が出来)、烏賊役一〇匁(うち三匁が出来)であった(三箇国高物成帳)。天保郷帳では白丸村の内。

長尾村
ながおむら

[現在地名]松山町長尾

東は船越ふなこし(現鹿島台町)、西は黒江くろえ村、北は須摩屋すまや村、南は広長ひろなが(現鹿島台町)。西南部が丘陵地で東北部に水田が開ける。「余目記録」によれば南北朝期に「長世保 長尾郷八ひろくき」で留守氏と氏家三河守が合戦をし、留守方の大将佐藤兵庫助が討死したとある。丘陵末端部にある長尾城跡は室町時代以降千石せんごく城に拠った遠藤氏の支城跡といわれ、空堀で区切られた三つの曲輪が南北に並び、本丸跡には嘉元三年(一三〇五)のものを含む一一基の板碑がある。

長尾村
ながおむら

[現在地名]西粟倉村長尾

影石かげいし村の南、吉野よしの川沿いに立地。北東部から支流の引谷ひかだに川が流れ、当村枝郷の引谷や字別府べふなどの集落がある。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚氏の檀那村付帳(肥塚家文書)に、粟倉の内「なかす村一ゑん」とあるのは当地か。天正六年(一五七八)八月一日の春名三之丞宛新免宗貫感状(美作古簡集)によれば、毛利氏方の草刈氏が西河内にしこうち(現兵庫県宍粟郡千種町)に城を構えたので、新免側が軍勢を出したところ「飛ケ谷表」で合戦となり、新免氏の勝利になった。

長尾村
ながおむら

[現在地名]藤原町長尾

員弁川の左岸、日内ひない村の北西に位置する。中世伊勢神宮領としての御厨の所在について、「五鈴遺響」は、「神鳳鈔」にみえる「長毛新田三反」「外宮県御薗五十丁」「郡司職田十二丁」「氏神社神田九反」を各々当地に比定している。江戸時代を通じて桑名藩領。文政七年(一八二四)の村明細帳(徳川林政史蔵)によれば、家数二六、人数一一六(男六六・女五〇)、馬九。助馬金一分と銀六匁九分二厘を桑名宿に納めるが、助郷については「当村は各別遠在、殊ニ人少之村ニ付御用捨被下、壱人半相勤申候」と記す。

長尾村
ながおむら

[現在地名]小野市長尾町・大開町だいかいちよう

両谷寺りようたにじの東に位置し、加古川の支流万勝寺まんしようじ川の中流域に立地する。山間の狭い河谷平野を見下ろす左岸段丘面に集落を形成している。北東は万勝寺村に接し、北から万勝寺道、東から後谷うしろだに村道・島谷しまたに村道が当村に入る(天保一四年「長尾村持添新田絵図」長尾町蔵)。慶長国絵図に村名がみえる。初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となり(延宝七年「島谷村検地帳」日吉町有文書)、寛永九年(一六三二)幕府領となるが(正保郷帳)、寛延二年(一七四九)姫路藩領となり幕末に至る(寛延四年「酒井忠恭領知目録」酒井家史料など)

長尾村
ながおむら

[現在地名]佐用町長尾

佐用さよ村の北、佐用川と支流の江川えかわ川との合流地に開けた佐用盆地の中心に位置し、平地と西方の後背台地に立地する。緩やかな台地縁辺に上長尾・下長尾の二集落がある。最高点は大撫おおなで山で標高四三六メートル。旧石器時代―平安時代に及ぶ長尾ながお沖田おきた遺跡があり、古代―中世の美作道は当地を通っていた。江戸期の領主の変遷は当初は佐用村に同じ。寛永一七年(一六四〇)山崎藩主の弟の旗本松井康紀と同康命に分知され幕末に至った(「寛政重修諸家譜」など)。正保郷帳には西本位田にしほんいでん村とみえ田方五三四石余・畠方一〇〇石余、旗本松平長谷領高五六石余。

長尾村
ながおむら

[現在地名]多久市南多久町みなみたくまち長尾 長尾・うえはる

現南多久町の西方。この集落の北側の丘陵地帯から先土器時代の石器類が多く出土している(長尾松前遺跡)。江戸時代は、伊万里往還(佐賀―伊万里)の宿として発達し、また村を横切る牛津川は多久邑の石炭輸送の重要な河川の一つであった。同川には鯉・鯰の大魚がおり、「鰐瀬の鯰が動けば大雨が降る」ということわざがあった。

丹邱邑誌」の「郷村」には「長尾村 宿・開田・津留・打越」の集落名がある。また同書の享保一一年(一七二六)の書出に「長尾宿二十五軒」とあり、また「安永二年二月六日二十戸焼失」とある。

長尾村
ながおむら

[現在地名]北上町長尾

東流して追波おつぱ湾に注ぐ追波川の北方、支流現皿貝さらがい川の北岸に位置し、北上山地の南麓に集落が点在。西は馬鞍まぐら(現河北町)、東は橋浦はしうら村。地元では「なごう」とよぶ。慶長五年(一六〇〇)の葛西大崎船止日記(伊達家文書)の葛西中に「なかうの内 舟五そう」とあり、当地に比定される。寛永二一年(一六四四)の伊達忠宗領知黒印状(同文書)に「長尾村」とみえ、ほか二村との合計八七貫九〇〇文が笹町新左衛門に与えられている。以後同氏は加増され、慶安五年(一六五二)には都合九一貫二三五文が与えられている(同文書)。正保郷帳では田二六貫一九一文・畑四貫二八六文で、ほかに新田二三九文。

長尾村
ながおむら

[現在地名]當麻町大字長尾

たけうち村東方の扇状地に立地。古代のよこ大路(竹内街道)長尾街道(葛城山根の道)交差地に発達した街村。慶長郷帳の村高三六四・六七石、幕府領(代官間宮三郎右衛門)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領、のち同藩の二割半無地高増政策で村高四五五・八三八石。廃藩置県に至るまで郡山藩領。

享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると反別二五町五畝一〇歩、家数八〇(本百姓五九、水呑二一)、人数男二〇六、女一六六、医師一、粕売三、油屋一、絹布売四、野鍛冶屋八、大工三、牛六。

長尾村
ながおむら

[現在地名]倉敷市玉島長尾たましまながお玉島爪崎たましまつまさき

七島ななしま村の東に位置し、村中央を玉島往来が南北に走る。治暦四年(一〇六八)の大嘗会備中国歌と記す藤原経衡「遥にぞいま行末を思ふべきながをのむらのながきためしに」(新拾遺集)は、当地を詠んだものとされる。

寛永備中国絵図では高三四六石、備中松山藩領。元和年間(一六一五―二四)以来の新田開発が進み、正保郷帳では高七五四石余とある。延宝二年(一六七四)年貢減免の百姓一揆がおき、新四郎・利兵衛が処刑されている(善昌寺鐘銘)。延宝五年頃には浦手御用をつとめる浦組村々に指定された(「水夫屋敷御除地口書」小野文書)。元禄六年(一六九三)の松山藩水谷家断絶後は幕府領となり、検地後の同八年の旧松山領新高帳(羽場文書)には高二千四六八石余とある。

長尾村
ながおむら

[現在地名]筑穂町長尾

嘉穂盆地の南西部、穂波ほなみ川の中流域に位置し、東は平塚ひらつか村。小早川時代の指出前之帳では長尾村の田四三町余(分米七六二石余)・畠八町二反余(分大豆五三石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千一六〇石余、うち大豆一六〇石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高一千一八二石余、家数五六・寺一・社一、人数四五七(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一〇〇・人数四〇一、馬二・牛五二(別本「続風土記附録」)

長尾村
ながおむら

[現在地名]小倉南区長尾三―六丁目・長行おさゆき長行東おさゆきひがし一―三丁目・徳吉東とくよしひがし一丁目

祇園町ぎおんまち村の南、むらさき川の中流左岸に位置する。元和八年人畜改帳に長尾村とみえ、高一六〇石、家数二九、人数四七(うち百姓四・坊主一)、牛八・馬四。正保国絵図に「上北方ノ内長尾」とみえる。郷村高帳では高五六七石余、うち新田高二五石余。幕末の各村覚書では本高五四二石余、田三三町七反余・畠一〇町余、物成二三九石余、竈数五二・家数七四・人数一九八、牛二九・馬九、阿弥陀寺など。

長尾村
ながおむら

[現在地名]玉野市長尾

たき村の東に位置し、枝村に尾越おごし長富ながとみ新田がある。弥生から古墳時代の遺跡が散在し、条里遺構や古代寺院跡も存在する。元和三年(一六一七)の児島郡物成帳では田畠高一千三二八石余、寛永備前国絵図では高一千一八六石余。明暦(一六五五―五八)前後に郡奉行石川善右衛門によって郡最大の天王てんのう(一〇町余)が開発されたと伝える。享保六年(一七二一)の田畠六八町一反余、家数一〇三・人数六八八(備陽記)。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると高一千一八六石余、直高七三六石余で二五石が蔵入、残りは池田和泉の給地、田五八町余・畑一一町七反余、池九・樋二〇・井戸一一、家数一七一・人数七九四、牛九八、猟師鉄砲二、紺屋一軒、家大工・左官・木挽各二、桶屋・鍛冶各一がいる。

長尾村
ながおむら

[現在地名]龍野市揖西町長尾いつさいちようながお

小犬丸こいねまる村の南に位置し、揖西郡に属する。西は赤穂郡と境する。集落は山裾と美濃みの谷の入口に形成されている。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は北龍野村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高五九三石余、高四九〇石余。正保郷帳では田方四六〇石余・畑方三〇石余。村高は幕末までほぼ変わらない。宝暦年間(一七五一―六四)の龍野藩領分明細帳(矢本家文書)では反別は田方三九町六反余・畑方三町二反余、本免四ツ八分・古新二ツ五分、山役米一石八斗・山札役銀三一匁七分、家数九四。

長尾村
ながおむら

[現在地名]美山町大字長尾

平屋ひらや一〇ヵ村の一。深見ふかみ川が本流由良川に合流する地点に位置し、丹波路(現周山街道)に沿う山間集落。川の対岸(北)上平屋かみひらや村、北東は野添のぞえ村、南西は又林またばやし村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、中世は野々村ののむら庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)園部藩領となる。

長尾村
ながおむら

[現在地名]山陽町長尾

すな川の右岸、長尾山の北麓に集落があり、東は立川たつかわ村。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)高月たかつき庄に長尾村とみえる。「吉備温故秘録」では鳥取ととり庄にあげられる。寛永備前国絵図の高三八六石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高四三六石余。貞享元年の荒などを引いた残高は四二二石余。享保六年(一七二一)には田畠二七町七反余、家数五五・人数二五八、池五、八幡宮・大明神がある(備陽記)

長尾村
ながおむら

[現在地名]海上町長尾

蛇園へびそね村の北西に位置する。椿つばき海の干拓により成立した椿新田一八ヵ村の一つ。元禄八年(一六九五)新田の惣検地により立村、同年の検地帳(椿新田開墾事略)によれば高四四石余で、蛇園村を親村とし長尾村と命名された。立村当時は幕府領で(元禄一三年頃の下総国各村級分など)、延享三年(一七四六)より佐倉藩領となり、村高ともども変化なく幕末に至る。正徳三年(一七一三)の椿新田拾八ヶ村写(蜂谷家文書)によれば、田四町九反余のうち下々田・悪地下々田が四町三反余、畑一町五反余のうち芝間が一町二反余を占めている。

長尾村
ながおむら

[現在地名]紀和町長尾

赤木あかぎ村の北にあり、北山街道が南北に通り、川畑かわばた(小松川)が西に流れ北山川に入る。中世は西山にしやま郷の中心であったと考えられる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「長尾村」と記される。入鹿組に属する。寛文七年(一六六七)から享保一四年(一七二九)にかけて新田検地が行われた(「新田検地帳」徳川林政史蔵など)。産土神住吉明神は勧請は明応六年(一四九七)と伝え、慶長以来の棟札がある(紀伊続風土記)

長尾村
ながおむら

[現在地名]行橋市長尾

常松つねまつ村の南、平尾ひらお台東麓の丘陵地に立地する。南は下崎しもさき村、西は入覚にゆうがく村。「太宰管内志」に「長尾村あり、其地東西三十町許、南北二十町許、聊高くして尾の如し、今凡て畠となる、是頓宮の地と聞ゆ、其処に八幡ノ社もあり」と記され、景行天皇の行宮の地に比定している。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高二五六石余、家数一六・人数三六(うち百姓四・名子二)、牛三・馬一。

長尾村
ながおむら

[現在地名]加茂川町富永とみなが

賀茂市場かもいちば村の北、標高約三五〇メートルの台地上にある。寛永備前国絵図に村名がみえ、高八八石余。寛永七年(一六三〇)の検地では朱印高のほか改出高三七石余(貞享元年「津高郡高目録」池田家文庫)。「備陽記」によると田畠一四町一反余、家数二七・人数一二八。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば直高一三五石余は家臣大方氏給地。

長尾村
ながおむら

[現在地名]静岡市長尾

庵原郡に所属。南流する長尾川の左岸沿いに位置し、南は瀬名せな村。領主の変遷は有渡郡中島なかじま村と同じ。元禄郷帳では高二八石余。旧高旧領取調帳では小島藩領二八石余。長尾山一帯は諸村の入会で、数十ヵ村が米二石余と銭一〇貫二七二文を上納して利用した。産物は毒荏・山茅・薪・薯蕷(以上「駿河記」)。安政五年(一八五八)の五人組仕置帳(西奈村誌)が伝えられている。

長尾村
ながおむら

[現在地名]安曇川町長尾

安曇川の南に位置し、東は中野なかの村。永正(一五〇四―二一)頃の一一月一九日付越中頼高書状(朽木文書)に長尾とある。近世初期から丹波福知山藩領と旗本朽木領。寛永石高帳に永尾村とあり、高三九五石余、うち一九七石余が旗本朽木兵部領、一九七石余が大町と記される。慶安高辻帳では丹波福知山藩領一九七石余、うち田方一六九石余・畑方二四石余・永荒四石余、旗本朽木与五郎領一九七石余、うち田方一六九石余・畑方二四石余・永荒四石余。

長尾村
ながおむら

[現在地名]大野町安藤あんどう 長尾

中土師なかはじ村の東、柴北しばきた川南東岸の山間部にある。正保郷帳に村名がみえ、田高三四石余・畑高一六石余、土師郷に属し、柴山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一〇七石余。

長尾村
ながおむら

[現在地名]宮前区五所塚ごしよづか一―二丁目・神木しぼく一―二丁目・神木本しぼくほん町一―五丁目など、多摩たま区長尾一―七丁目

昭和五七年(一九八二)七月の宮前区成立に伴い、南部が多摩区から宮前区へ移った(多摩区の→長尾村

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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