多久島(読み)たくしま

日本歴史地名大系 「多久島」の解説

多久島
たくしま

中世の宇野うの御厨のうちで、たく島に比定される。地名の初見は南北朝期ながら、当地を拠点としたとみられる勢力は鎌倉期からみえ、嘉元四年(一三〇六)に「多久小太郎」は大村家直とともに五島の青方高家と平戸の峰貞との相論に際して高家側が陳状を提出するよう催促すべきことを命じられている(同年四月一一日「肥前国守護代平岡為政書下案」青方文書)。小太郎は多久太郎宗経とも記され(欠年月日「青方覚念陳状案」同文書)、応長元年(一三一一)には高家と波佐見義平との相論で召文に応じないとして実否の調査を指示されている(同年七月一〇日「鎮西御教書案」同文書)。建武二年(一三三五)一〇月七日の太政官符案(山代文書)に「宇野御厨内山代・多久島・船木・東島」とみえ、父源正が領知していたこれらの地頭職が山代亀鶴丸(弘)に安堵されている。亀鶴丸は同年一二月この官符をもって雑訴決断所牒を請求、これを得ている(同年一二月一〇日「雑訴決断所牒案」同文書)。建武政権の崩壊後、同四年に弘は足利直義から多久島の地頭職などを、亡父の正が残した文書(正和三年一二月一六日下知状・元亨元年八月一〇日譲状)に基づいて安堵されている(同年四月三日「足利直義安堵状」同文書)。貞和六年(一三五〇)山代弘は「たくしま」などを嫡子の「ちやうかめ」に譲っている(同年三月二〇日「山代弘譲状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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