多比良城跡(読み)たいらじようあと

日本歴史地名大系 「多比良城跡」の解説

多比良城跡
たいらじようあと

[現在地名]国見町多比良 轟

城之元じようのもと(標高一二メートル)に築かれた中世の城跡。轟木とどろき城とも称される。永暦元年(一一六〇)日向太郎通良により築城されたという。通良の子の多比良通秀は平家貞に追討され、鎌倉期には多比良氏は御家人としてみえ、元亨三年(一三二三)当時は高来西たかくさい郷の郡司・図師職を勤めている(同年一一月日「多比良通世申状案」大川文書)。観応三年(一三五二)九月二〇日の小俣氏連感状(深江文書)に「多比良外城」とみえ、同城攻略の際の安富新三郎直安(直泰)の戦功が賞されており、足利直冬方の勢力下に入った。この合戦か、八月に氏連の攻撃で多比良重通が討死したともいう(北肥戦誌)。文和二年(一三五三)二月の筑前針摺はりすり(現福岡県筑紫野市)の合戦で一色道猷肥後菊池武光に大敗するに伴い南朝勢力が優勢となり、正平九年(一三五四)八月、菊池武澄島原半島に渡って「多比良城」を攻撃し、九月一二日城兵は没落した(同年九月一二日「有馬澄明軍忠状」有馬文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報