日本歴史地名大系 「大仁村」の解説
大仁村
おおひとむら
天保九年(一八三八)の差出帳(大仁区有文書)に「未年佐野平兵衛様御検地之由」とあり、慶長一二年(一六〇七)検地を受けたと思われる。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高二〇九石余、元禄初年高帳では新田高一石余。享保七年(一七二二)の年貢割付状(鈴木家文書)によれば田方九町七反余・畑方一三町六反余、新田三石余・反別七反余。江戸時代初期は幕府領、宝永四年(一七〇七)上野高崎藩領、享保二年幕府領、同一三年陸奥棚倉藩領となって明和五年(一七六八)上知。高一三一石余は相模荻野山中藩領となる。残り八二石余は同六年上野館林藩領、同年相模小田原藩領となり幕末まで続いた(「韮山町史」など)。
天保九年の家数九三、うち本百姓二五・水呑六三・寺二、
大仁村
だいにむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報