大仁村(読み)おおひとむら

日本歴史地名大系 「大仁村」の解説

大仁村
おおひとむら

[現在地名]大仁町大仁

狩野かの川中流域東岸に位置する村で、北は吉田よしだ村、東は牧之郷まきのごう(現修善寺町)下田街道が同川を君沢くんたく瓜生野うりゆうの(現同上)に渡る地点にあり、同街道の継場として賑わった。天正一八年(一五九〇)四月の小田原攻めの最中、豊臣秀吉は「田中郷内大ひと村」に百姓還住などを命じる掟書(石井文書)を発給している。

天保九年(一八三八)差出帳(大仁区有文書)に「未年佐野平兵衛様御検地之由」とあり、慶長一二年(一六〇七)検地を受けたと思われる。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高二〇九石余、元禄初年高帳では新田高一石余。享保七年(一七二二)年貢割付状(鈴木家文書)によれば田方九町七反余・畑方一三町六反余、新田三石余・反別七反余。江戸時代初期は幕府領、宝永四年(一七〇七)上野高崎藩領、享保二年幕府領、同一三年陸奥棚倉藩領となって明和五年(一七六八)上知。高一三一石余は相模荻野山中藩領となる。残り八二石余は同六年上野館林藩領、同年相模小田原藩領となり幕末まで続いた(「韮山町史」など)

天保九年の家数九三、うち本百姓二五・水呑六三・寺二、洞泉とうせん院抱えの堂一・庵二所(一は大光庵)があったが文政一二年(一八二九)焼失


大仁村
だいにむら

[現在地名]大淀区大淀〈なか一―三丁目・きた一丁目・みなみ一―二丁目〉・中津なかつ五―六丁目

下三番しもさんば村の南西にある。鷺洲さぎす遺跡からは独木舟が出土した。地名は古代に朝鮮から渡来した博士王仁にちなむという。字名に王仁わにがあり、隣村浦江うらえ村の王仁墓と伝えるものは当村から移したというが、真偽不明。寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)には「大仁村」の項があり、道観ら一三名の作人と、田数一町三反余・七石余・銭方五〇文の年貢が記される。下大仁の地名がみえるから大仁・下大仁の二集落に分れていたとみられる。住人は当村と福島ふくしま村・野田のだ(現福島区)に耕地をもっているが、なかに「福島村今在家西」に三一〇歩をもつ「大二唐鋤屋常阿弥」の名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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