瓜生野村(読み)うりゆうのむら

日本歴史地名大系 「瓜生野村」の解説

瓜生野村
うりゆうのむら

[現在地名]修善寺町瓜生野

伊豆半島北部、狩野かの川上・中流域で支流の大見おおみ川が交わる西岸側にある。江戸時代は君沢くんたく郡に所属。下田街道が通り、北の田方郡大仁おおひと(現大仁町)との境を流れる同川には大仁渡がある(増訂豆州志稿)。嘉永二年(一八四九)の地誌御調書(原家文書)によると文禄三年(一五九四)検地があり、慶長元年(一五九六)牧之まきの郷の反別三町一反余・四六石余を分地されたが、のち大野おおの村に入ったとされる(増訂豆州志稿)。寛永元年(一六二四)代官(金山同心)竹村九郎右衛門による検地が行われた(「伊豆瓜生野村検地帳」大城家文書)。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」では高二一四石余。元禄初年高帳によると反別は田方一三〇石余・九町余、畑方八三石余・一二町六反余。畑方のうち屋敷は一町六反余・高一六石余。


瓜生野村
うりゆうのむら

[現在地名]宮崎市瓜生野

宮崎郡に属し、大淀川を隔てて諸県もろかた有田ありた村と跡江あとえ村の北に位置する。東は那珂郡広原ひろわら村。村内に柏田かしわだ町があり、枝村として大瀬町おおせまち村がある。鎌倉・室町時代には生野うりゆうの別符とよばれ、豊前宇佐宮領の庄園であった。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録には瓜生野六〇町とあり、高橋元種領となっている。慶長五年(一六〇〇)一〇月一八日、宮崎城に在城する伊東氏家臣稲津掃部助は倉岡くらおか高岡たかおか(現高岡町)などから瓜生野口に押寄せた島津勢に対し、宮崎城を出て合戦に及んでいる。


瓜生野村
うりうのむら

[現在地名]武生市瓜生野町

大塩おおしお谷の奥にある。中世の大塩保内の一村で、慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「大塩村瓜生野分」として高一三六・九七二石とある。正保郷帳によると、田方一一六石余・畠方二〇石余。福井藩領。寛政四年(一七九二)の支配下村々高家人数留(「越前宗門帳」所収)によれば、家数一三(うち高持八・雑家五)・人数四八。


瓜生野村
うりうのむら

[現在地名]宇部市大字瓜生野

厚東ことう川がその支流甲山こうやま川を合流して南下、流路を南西に向ける辺りの右岸に位置し、北東は木田きだ、東は車地くるまじ、南西は吉見よしみ、北西は芦河内あしがわち(現厚狭郡楠町)の各村と接する山間村。村の南部を山陽道が通る。萩藩領で舟木宰判に属する。

慶長五年(一六〇〇)検地帳では木田薬師堂やくしどう・瓜生野と合筆、同一五年の検地帳でも同様に記載される(→木田村。寛永三年(一六二六)の給領御配郡別石高名付附立には瓜生野に榎本中務の給領地二六〇石余があることを記す。

「地下上申」では瓜生野は木田村の小村として記される。


瓜生野村
うりうのむら

[現在地名]園部町瓜生野

今林いまばやし村の西にあり、北は新堂しんどう村・熊崎くまざき村、南と西は上木崎かみきざき村。周囲を丘陵に囲まれた小盆地に位置する。園部藩領。村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳で一九〇石余、天保郷帳では二四〇石余。幕末の家数は三四、人口一一三(「口丹波風土記」所引園部藩記録)


瓜生野村
うりゆうのむら

[現在地名]鳥栖市元町もとまち本町ほんまち三丁目・秋葉町あきばまち二丁目

瓜生野町に隣接し、北から張り出した低位段丘舌状部西縁辺りに立地し、村の北部を長崎街道が通る。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「瓜生野保」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android