大友郷・大友庄(読み)おおどもごう・おおどものしよう

日本歴史地名大系 「大友郷・大友庄」の解説

大友郷・大友庄
おおどもごう・おおどものしよう

現小田原市東大友ひがしおおども・西大友一帯にあたる。平安時代末期の作と推定される荒陵寺御手印縁起に記される、乙卯歳(推古天皇三年)の食封三〇〇烟のうちに「相模国足上郡大伴郷五拾烟」とある。遅くとも鎌倉時代のごく初期から大友郷とよばれた。のちに豊後国を本拠とした大名の大友氏の名字の起こった地であり、応仁の乱以前までは代々大友氏の惣領家に相伝されていた。

吾妻鏡」文治四年(一一八八)一二月一七日条には、当時大友氏の始祖の能直が病気療養のため大友郷に居住していたと記されている。能直の母は波多野経家の娘で大友局とも称した(「豊後大友家系譜」増補訂正編年大友史料)から、平安時代末には波多野氏の所領であったかもしれない。能直は貞応二年(一二二三)一一月二日「大友郷地頭郷司職」を妻の尼深妙に譲り(「大友能直譲状案」志賀文書)、深妙は延応二年(一二四〇)四月六日、この職を嫡男大友親秀に譲与した(「尼深妙所領配分状」県史一)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報