デジタル大辞泉
「小田原市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
小田原市
おだわらし
面積:一一四・二四平方キロ
足柄平野の南部、東は大磯丘陵、西は箱根外輪山、北は丹沢山塊、東南から南へかけて相模湾に臨む。東から中村川(押切川)・森戸川・酒匂川・山王川・早川が相模湾に注ぐ。市域の大部分はかつて足柄下郡に属し、東は中郡二宮町、北は足柄上郡中井町・大井町・開成町、北西は南足柄市、西は足柄下郡箱根町・湯河原町・真鶴町に接する。東南から西南へかけて国道一号、東部を南北に国道二五五号が走り、海岸沿いに西湘バイパスが走る。富士箱根伊豆国立公園の玄関口にあたる。相模湾の潮流によって気候温暖である。わが国有数の地震帯に位置し、数度の大地震に見舞われている。
〔原始・古代〕
先土器文化の遺物が一例だけ小田原城内から発見されている。縄文遺跡は標高五〇メートル以上の周辺台地の、主として西部の箱根外輪山の山裾と東部の大磯丘陵の傾斜地に散在する。貝塚は発見されていない。弥生遺跡は山王川・森戸川の後背湿地の水田と丘陵との接点である荻窪・千代・高田・中里および市街地の天神山や国鉄小田原駅裏手の高台にみられる。久野・弁天山・橘など周辺丘陵地に比較的小規模な古墳群がある。「国造本紀」にみえる「師長国造」の支配する師長国の地域に含まれたと伝承され、東の相武国と比してきわめて微弱であり、両国は大和政権によりやがて相模国に統合される。
大磯丘陵の西側の千代台地にある奈良時代の創建と推定される千代廃寺跡から縄文・弥生の土師器・須恵器や布目瓦が発掘され、北方の足柄上郡松田町からは古代瓦を焼くからさわ古窯跡も発見されている。この付近を相模国府所在地とする説もある。天平七年(七三五)の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)には足下郡垂水郷五〇戸が光明皇后、足下郡高田郷・足上郡の岡本郷五〇戸が舎人親王の封戸にあてられている。「和名抄」にみえる足下郡のうち高田・飯田・駅家、足上郡のうち桜井・岡本、余綾郡のうち中村などの各郷が市域にあたると推定される。「延喜式」(兵部省)には相模国駅馬のうち小総一二疋が記されている。官道は、古くは足柄峠を越え、坂本(現南足柄市)から小総を経て国府所在地の一つに推定される海老名(現海老名市)へ通じていた。平安時代には国府が現大磯町の海岸近くへ移ったと考えられることから、坂本から松田を経て曾我から国府津への大磯丘陵西裾を下ったと思われる。また千代台地にあった寺院は勝福寺(飯泉観音)の縁起によれば、古代末期には飯泉に移されたといい、観音信仰の盛行とともに坂東三十三観音の五番札所となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
小田原〔市〕
おだわら
神奈川県南西部の中心都市。足柄平野の南部を中心に,西は箱根外輪山の東斜面,東は大磯丘陵の西部に及ぶ。 1940年市制。 48年から 71年の間に国府津町など3町,下府中村など6村,曽我村の一部を編入。地名は平野部の湿田地帯に由来するといわれる。中心市街地は足柄平野の南西部にあり,古来箱根山東麓の交通,軍事の要地であった。室町時代に北条氏が小田原城を本拠に関東経略をはかり城下町を造営。江戸時代は小田原藩の城下町,東海道の宿駅としてにぎわった。明治以後,東海道本線は箱根山を北に迂回したが,1934年丹那トンネルの開通により本線の通過地となり駅がおかれた。東海道新幹線の小田原駅もあり,小田急電鉄小田原線の終点,伊豆箱根鉄道,箱根登山鉄道の起点。道路は国道1号線,西湘バイパスが通るほか,小田原厚木道路で東名高速道路に通じ,箱根,伊豆半島への観光道路の起点でもある。市街地は小田原駅前から海岸まで広がり,国道沿いに国府津付近まで続いている。県の南西部を商圏とする商業都市であり,また箱根細工の伝統を生かした家具製造,扇状地末端の湧水によるフィルムや印刷などの工場がある。足柄平野は米作が中心で,丘陵地では広くミカンが栽培される。大磯丘陵の曾我は観梅の名所でウメを特産。かまぼこ製造も地場産業として知られる。近年は京浜地域への通勤者向け宅地開発が盛ん。箱根観光の基地であり,史跡の小田原城城址,石垣山の一夜城跡などの名所があるほか,95年3月,県立博物館のうち自然関係の資料を収蔵展示する「生命の星・地球博物館」が開館。また早川のビランジュ (バクチノキ ) は天然記念物。郷土芸能として相模人形芝居が有名で,重要無形民俗文化財に指定されている。市域の一部は富士箱根伊豆国立公園に属する。面積 113.60km2。人口 18万8856(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 