大和街道(加太越奈良道)(読み)やまとかいどう(かぶとごえならみち)

日本歴史地名大系 の解説

大和街道(加太越奈良道)
やまとかいどう(かぶとごえならみち)

奈良と東海道せき宿(現鈴鹿郡関町)を結ぶ街道。江戸時代、一般には加太かぶと越奈良道の名称が用いられ、ほかに奈良街道・大和道などともよばれたが、明治以後、大和街道と定められた(明治一六年「三重県統計書」三重県庁蔵)

「三国地志」は伊賀の「新家廃駅」を解説して、「按、今東村ニ桜町・池町・上官舎・下官舎等地名存シ、土俗奈良街道ト云、本邑新居郷ニシテ、新居川原ノ名存スレバ是則古駅ノ地ナリ」と記しているが、この場合の奈良街道は和銅四年(七一一)奈良より東へ、山城国岡田おかだ(現加茂町)、伊賀国の新家にいのみ(現上野市)を結ぶ道をいう。笠置かさぎ山系山麓を通り大河原おおかわら村の押原おしはら(現京都府南山城村)を経て伊賀しまはら大道おおどう(現阿山郡)から新家駅に出て、東行して柘植一ッ家つげひとつや(現阿山郡伊賀町)を経て加太(現関町)に出たと推測される。一ッ家越が開かれていたと考える根拠は、天平宝字二年(七五八)一一月二八日付の伊賀国司解(内閣文庫蔵)に記す阿拝郡柘殖つみえ郷の開田地一〇町の四至に「南限駅道」とある。さらにこれに関連して、保安四年(一一二三)九月一二日明法博士勘状案(東大寺文書)所引貞観一三年(八七一)八月二五日付大判官代阿閇望富売券に載る「敷地一処」の四至に「南限離岡并伊勢大路」とあり、この敷地の南に伊勢大路、すなわち駅路が通っていたと想定される。

「日本書紀」の壬申の乱に、大海人皇子がこの道を経て「大山を越えて、伊勢の鈴鹿に至る」という大山おおやまは加太越のことで、当時は加太連山を鈴鹿山といい、鈴鹿の関は現関町新所しんじよ(西の追分)辺りと想定されている。そのさきは現関町加太の市場いちばへは北方に迂回するいわゆるバンドウ越道がとられたものと思われる。「源平盛衰記」に源義経が木曾義仲追討のため伊勢から伊賀へ越えたのは、加太から北方を西北へ迂回して加太山にかかり、「山を越えて河瀬に浸」り、「かくて山路を出ぬれば、殖柘(ママ)里、くらぶ山、風の森を打過て、当国の一宮、南宮大菩薩の御前を、心ばかりに再拝し」と記され、間道ともいうべき最も険阻な道を通って現伊賀町の東北部のぞろぞろ峠より柘植に出ている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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