島ヶ原宿(読み)しまがはらじゆく

日本歴史地名大系 「島ヶ原宿」の解説

島ヶ原宿
しまがはらじゆく

[現在地名]島ヶ原村

江戸時代における加太かぶと越奈良道の一宿駅。奈良道は東海道せき宿の西追分にしおいわけから分れて伊賀(木津川)に沿って西進し、大河原おおかわら笠置かさぎ(現京都府相楽郡)から奈良を経て、生駒いこま連山くらがり峠で越えて河内国松原まつばら(現東大阪市)に至る幕府脇往還

当宿がいつ頃から開けたかは明らかでないが、当村の谷尻たにじり平田ひらた辺りから須恵器破片や瓦器の出土がみられるから、鎌倉道の伝承がこの辺りに残るように、その頃すでに道路は開かれていたものと想像される。「三国地志」に「島箇原駅、今町、或ハ馬宿ト云、源廷尉上洛ノトキヨリ今ニ至テ此処也ト云」と記されている。中世における駅宿は地頭の支配下に属するが、当宿に駅馬を置いたという証拠はない。ただ源義経が木曾義仲追討のため、当地を通過したことは「源平盛衰記」に記されている。馬宿という前近世的な名称から考えて、中世末にすでに島ヶ原宿の先蹤が成立していたのであろう。津藩になって宿駅が設けられたのは寛永二年(一六二五)以後のことであろう。「宗国史」には「問屋なく候へば駄賃馬之しまりなく候間問屋定申候事、寛永二年四月」と、問屋を設置して人足の見かけ取駄賃を禁じている。同一四年に駄賃の規則もでき、高札場も設けられ、上野より島ヶ原までは一駄に付五〇文、人足は半額、島ヶ原宿の駅馬三一疋と定められた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報