大塚新田
おおつかしんでん
[現在地名]川越市大塚新田
大塚村の東、不老川左岸の台地上に立地。慶長年中(一五九六―一六一五)大塚村の開発に助力した桶川宿の新兵衛・次郎右衛門らが慶長一八年に武蔵野の芝地を開発して成立したといい、慶安(一六四八―五二)頃までは大塚村次郎右衛門新田と称し、延宝(一六七三―八一)から大塚新田と称したという。幕末まで川越藩領。検地は慶安・延宝期に行われた(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に書加えられた武蔵野分のうちに新村の注記で村名がみえ、高二一〇石余・反別畑五一町余。元禄七年(一六九四)の柳沢保明領知目録には「大塚村之内大塚新田」とある。
大塚新田
おおつかしんでん
[現在地名]妙高村上大塚新田
関川左岸に並行して走る道に沿い、南西は中島新田、北東は大沢新田(現新井市)、西は中原新田、関川対岸は猿橋村(現新井市)。天和三年郷帳によれば高六四石五斗余、うち野高四升二合とある。
大塚新田
おおつかしんでん
[現在地名]江東区北砂七丁目・東砂三丁目・同四丁目
亀高村の東にある。検地は元禄一〇年(一六九七)で(風土記稿)、元禄郷帳では高八六石余。「風土記稿」によれば東西・南北とも三町余、家数一五、幕府領。
大塚新田
おおつかしんでん
[現在地名]上越市三ッ橋新田
三ッ橋村近くに位置する同村枝郷。天和三年郷帳によると高三〇石九斗余。天明九年(一七八九)の万高付之覚(明治大学刑事博物館蔵)によると二九石六斗余、うち田高二六石四斗余・畑高二石六斗余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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