桶川宿(読み)おけがわしゆく

日本歴史地名大系 「桶川宿」の解説

桶川宿
おけがわしゆく

[現在地名]桶川市寿ことぶき一―二丁目・神明しんめい一丁目・ひがし一―二丁目・西にし一―二丁目・みなみ一―二丁目・きた一―二丁目・末広すえひろ一―三丁目・いずみ一―二丁目・若宮わかみや一―二丁目・鴨川かもがわ一丁目

市域のほぼ中央部、大宮台地上にあり、谷間からは鴨川・しば川が南へ流れ出る。観応三年(一三五二)九月一八日の足利尊氏袖判下文写(風土記稿)によれば、「武蔵国足立郡桶皮郷内菅谷村丸七郎跡」が勲功の賞として春日八郎行元に宛行われている。菅谷村は現上尾市菅谷すがやに比定されるから、桶皮おけがわ郷は現桶川市から上尾市にまたがる地域に比定される。天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)にみえる西尾吉次が五千石を宛行われた「武州奈比川」は、桶川のこととも推定されるが不詳(新編埼玉県史)。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。近世には中山道桶川宿として、また近郷の物資の集散地として発達した。田園簿では桶川村、元禄郷帳では桶川町、天保郷帳では桶川宿とある。江戸初期には東方のかみみなみ久保くぼ門前もんぜん(現上尾市)を含んでいたとされ、南村の元和二年(一六一六)の村高割付書には桶川南村と記されるという(風土記稿)。寛永一四年(一六三七)年貢割付状(府川家文書)では七六八石余、田八町余・畑八〇町八反余(うち屋敷九町一反余)・新田分畑四二町六反余。年貢は米三〇石余・永五九貫七七文、新田分永一八貫四八四文とある。田園簿では田八三石余・畑四八九石余の計五七二石余となっており、元禄元年(一六八八)の年貢割付状写(府川家文書)では七七八石余。同七年検地が実施され(享保一四年「反別差出明細帳」同文書)、高六八二石余・反別一二八町五反余、藪三町余・林二〇町七反余・芝地二九町五反余となった(桶川町史)。ただし享保一四年(一七二九)の明細帳では高六七七石余、田七反余・畑一二六町二反余とある。延享三年(一七四六)新田検地では四四石余、反別二一町四反余(下々畑一町四反余・見付畑三町六反余・林畑一六町三反余)が打出されている(桶川町史)。支配は田園簿では岩槻藩領、国立史料館本元禄郷帳、幕末の改革組合取調書では幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の桶川宿の言及

【桶川[市]】より

…荒川の河川敷には1964年に設立された小型飛行機用のホンダエアポートがあり,商業用の飛行船の基地にもなっている。【新井 寿郎】
[桶川宿]
 中山道武蔵国の宿駅。江戸から10里4町。…

※「桶川宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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