日本歴史地名大系 「大石田村」の解説
大石田村
おおいしだむら
最上川の右岸、現大石田町の市街地一帯を占めていた村で、大石田河岸の所在地として在郷町化がみられた。江戸初期には一村であったが、寛永一三年(一六三六)相給村となって二村に分立、さらに領主の異動によって分村が進み、寛文八年(一六六八)には四村となった。嘉永元年(一八四八)の村山郡石高帳にみえる大石田村(高三一六石余、大石田新町ともいう)・大石田本町(高一九四石余)・大石田四日町(高四六〇石余)・大石田村(高六五七石余、旧高旧領取調帳では新大石田村)である。ただし天保郷帳では大石田村一村で高付されており、高一千六〇二石余。
最上氏時代には朝比奈讃岐が大石田二千石を知行(「最上義光分限帳」色川文書)。最上氏改易後は山形藩領となり、元和九年(一六二三)の検地帳(山形大学附属図書館蔵)によると田三四町三反余・畑四七町六反余(うち屋敷七町九反余)。名請人の居住地地名に本町・新町・井出村・舟町・四日町・よこ町・ふろや・御蔵之内・門前などがみえる。寛永一三年保科氏の山形入部に際し、村高のうち一千一二六石余は山形藩領として継続するが(保科氏領知目録)、残余(大石田四日町)は幕府領となる。
大石田村
おおいしだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報