浄願寺(読み)じようがんじ

日本歴史地名大系 「浄願寺」の解説

浄願寺
じようがんじ

[現在地名]秋田市旭北栄町

てら町北部、鱗勝りんしよう院の南にある。真宗大谷派、弥高山と号し、本尊阿弥陀如来

藤原姓菊池氏弥高山菊池院浄願寺系譜(浄願寺蔵)によれば、肥後国菊池兼朝の四男武弘は越前国吉崎で蓮如弟子となり、文明三年(一四七一)奥羽・夷地に法門の弘道を志し、明応八年(一四九九)松前上国に夷島浄願寺を開基。永正年間(一五〇四―二一)その孫了東は土崎湊つちざきみなとに移住したと伝える。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]高松市番町二丁目

五番ごばん丁・六番丁・七番丁武家屋敷の東端、城下町中央部を占めた城下きっての巨刹であったが、昭和二〇年(一九四五)の戦災で全焼し、同二四年に約一〇〇メートル北西の現在地に移転・再建。旧地は現在の高松市中央ちゆうおう公園。超世山養通院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと鵜足うた宇多津うたづ(現綾歌郡宇多津町)にあった。創建年代について「讃岐国名勝図会」には文明年中(一四六九―八七)法蓮社源誉の建立とあるが、応永一一年(一四〇四)の修造棟札と阿波三好家の殺生禁断の制札があったといわれる。寛文九年(一六六九)の「御領分中寺々由来」に「開基知不申候、再建は応永十一年、天正年中両度之棟札并阿波三好殺生禁断之制札・什物等、承応三年寺炎上之時焼失仕候、其以前頼重之家臣披見仕候事」「寺、古は鵜足郡有之候得共、生駒雅楽頭近規居城丸亀在之に付丸亀引立、其後、高松居城に成候刻、高松へ引申候」とあり、天正一五年(一五八七)生駒親正によって丸亀に移され、同一六年高松入府とともに城下てら(御馬屋の跡地、現正覚寺の地)に移築された。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]長浜市榎木町

恵光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つ。もとは滋賀県多賀町水谷すいだにの浄願寺と寺基を同じくする。天保下寺帳によれば、正和三年(一三一四)了存による開基。由緒書(寺蔵)によれば、了存は佐々木氏の家臣加納丹後守貞吉の次男源吾兵衛尉で、出家して天台宗に属し、普現行願寺と称する。了空・祐心・円入と次第したのち、五代善勝(善照とも)が蓮如に帰依して真宗に改宗し、延徳元年(一四八九)に多賀荘水谷に寺基を移したという。善照が明応六年(一四九七)一月二八日に蓮如より下付された親鸞絵像裏書、翌七年一一月一四日に実如より下付された蓮如絵像裏書、年代表記はないが実如より下付された実如絵像裏書(以上、寺蔵)などには、いずれも「江州犬上郡多賀庄水谷浄願寺常住物也」とあり、そもそもの寺基は水谷にあった。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]豊田市上郷町 御所名残

上野山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。応仁二年(一四六八)円道の開基と伝える。文亀三年(一五〇三)実如に阿弥陀如来絵像を下付されて浄願寺と称した。永禄六年(一五六三)三河一向一揆で寺は備後福山ふくやま(現広島県)に逃れ移ったという。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]福山市御船町一丁目

寺町筋の南側最西端にある。遐照山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。開山の了祐が水野氏移封に伴い、三河国岡崎おかざき(現愛知県岡崎市)から元和六年(一六二〇)に引越し、初め道三どうさん町に建立。万治年間(一六五八―六一)に現在地に移転。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]新庄町大字寺口

寺口てらぐち本郷ほんごう集落中央に位置する。山号は布施山、浄土宗。本尊阿弥陀三尊像。寺伝によると、行基の開基、あるいは文徳天皇の勅願による創建ともいい、元亀年中(一五七〇―七三)兵火にかかり堂宇を焼失、その後、難を免れた地蔵菩薩を本尊として小堂を建立した。


浄願寺
じようがんじ

[現在地名]三国町山王

花園山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。古くは多門院と号し、天台宗であったとされ、正慶元年(一三三二)浄土真宗に改宗したという。当寺蔵の文禄五年(一五九六)の親鸞絵像裏書に「越前国坂北郡坪江郷三国 願主慶順」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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