日本歴史地名大系 「大聖寺藩邸跡」の解説 大聖寺藩邸跡だいしようじはんていあと 石川県:加賀市大聖寺町大聖寺藩邸跡[現在地名]加賀市大聖寺八間道錦城(きんじよう)山(古城山)東麓にあった大聖寺藩前田家一四代の居館跡。寛永一六年(一六三九)加賀藩三代藩主前田利常は藩領を三人の子に分知、三男利治は江沼(えぬま)郡(那谷村を除く)および越中新川(にいかわ)郡内七ヵ村で七万石を分与され大聖寺藩が成立した。大聖寺城は元和元年(一六一五)の一国一城令で廃城となっているので、利治入封と同時に藩邸の造営が行われたと考えられる。藩邸は一二〇間×七〇間で東を正面とし、北を大聖寺川が流れ、残る三方は熊坂(くまさか)川とその支流を利用した堀で囲まれていた。元禄六年(一六九三)家中内田八右衛門家からの出火で門だけを残して延焼、宝永元年(一七〇四)ようやく復興した。幕末の邸内の様子を大聖寺藩邸図(山田家蔵)によってみると、南寄りにある大門から入ると広庭があり、右手に藩主居館があって御郡所・御用所・算用場が東に張出し、算用場前の離れが改作所であった。左手には作事所があり、その西に文久三年(一八六三)一〇代藩主利極夫人の広敷が築造された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by