コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

大聖寺藩 だいしょうじはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大聖寺藩
だいしょうじはん

江戸時代,加賀国 (石川県) 江沼郡大聖寺地方を領有した藩。もと山口正弘が6万石を領したが,関ヶ原の戦い後改易され,寛永 16 (1639) 年加賀藩前田光高の弟利治 (としはる) が分家して7万石で入封,のち9代利之 (としこれ) のとき文政 10 (1827) 年に新墾田1万石および宗家から廩米 (りんまい) 2万俵を分与されて 10万石となり,14代利益のとき廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディアの解説

大聖寺藩【だいしょうじはん】

大聖寺

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

藩名・旧国名がわかる事典の解説

だいしょうじはん【大聖寺藩】

江戸時代加賀(かが)国江沼郡大聖寺(現、石川県加賀市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩で、加賀藩の支藩。藩校は時習館。1639年(寛永(かんえい)16)に加賀藩の3代藩主前田利常(としつね)が小松に隠居した際、次男利次(としつぐ)に富山藩 10万石、3男利治(としはる)に大聖寺藩7万石の分封(ぶんぽう)を幕府に願い出て許され、大聖寺藩が成立した。以後明治維新まで前田氏14代が続いた。初代利治は、鉱山や九谷焼(くたにやき)の開発に力を注いだが、九谷焼が17世紀末にいったん廃窯となるなど、財政を支えるほどの産業は育たなかった。にもかかわらず、9代藩主利之(としこれ)が1821年(文政4)に7万石から実収を伴わない10万石へと高直しを行ったため、財政はいっそう窮迫した。1871年(明治4)の廃藩置県で大聖寺県となったが、その後、金沢県に編入され、72年に石川県と改称された。

出典 講談社藩名・旧国名がわかる事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大聖寺藩
だいしょうじはん

加賀国大聖寺(石川県加賀市)周辺を領した外様(とざま)藩。加賀藩支藩。藩主前田氏。1639年(寛永16)加賀藩3代藩主前田利常(としつね)が前田家維持を目的に富山藩10万石、大聖寺藩7万石を分封して成立。藩主は大聖寺館邸に住んだ。当藩はこれといった産業をもたないため財政は苦しかったが、1821年(文政4)江戸屋敷の門構えや江戸城中の席次、詰所にかかわる見栄(みえ)・外聞から、実収の伴わぬ10万石に石直(こくなお)ししたことによりいっそう窮迫した。このため、財政は本藩に多く支えられたことから、行政も本藩の影響が大きく、歴代藩主14人のうち5人が本藩から入った。初代藩主前田利治は財政自立のため鉱山や九谷(くたに)焼窯の開発に努め、2代利明も新田1800石、矢田野9か村を開き、また、樫(かし)の実、茶の実の栽培、山中谷の製紙業、あるいは片山津(かたやまづ)温泉の鑿泉(さくせん)を行った。なかでも九谷焼窯の生産には力を注いだ。今日、その大胆な構図、雄勁(ゆうけい)な描線は「古九谷」と称され、数々の名品を残しているが、17世紀末には廃窯となった。3代利直が大聖寺川辺に建立した長流亭(ちょうりゅうてい)(川端御亭(かわばたおちん))は有名である。藩政後期、財政はさらに窮迫し貢租の取り立ても厳しくなった。1712年(正徳2)秋、免租、減免を要求した全藩にわたる百姓一揆(いっき)が起こり、十村(とむら)(大庄屋(おおじょうや))や豪商を襲撃した。藩は貸米、用捨(ようしゃ)米により鎮静化を図った。こののち、幕府の助役により財政はさらに悪化した。藩末、吉田屋九谷窯の再興、大聖寺絹の生産が進められ、また、北前船(きたまえぶね)の船主を輩出した。1871年(明治4)廃藩、大聖寺県となり、金沢県に併合されたが、その際、藩債整理のため重税を課したことから一揆(蓑虫(みのむし)騒動)が起こった。76年さらに合併して石川県となる。[田中喜男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典内の大聖寺藩の言及

【加賀国】より

…他の城将も政治・軍事情勢の推移につれて交代したが,利家を継いだ利長が1600年(慶長5)に徳川方について加賀南部で戦い,加賀一国は前田氏の領有に帰した(加賀藩)。39年(寛永16)に大聖寺藩7万石を分立。以後は廃藩置県まで大名の変更はなかった。…

【大聖寺】より

…1600年(慶長5)8月,徳川家康の命で加賀藩2代藩主前田利長は,西軍に属する大聖寺城を攻撃して城主山口宗永を自刃させ,関ヶ原の戦の前哨戦として百万石大名の地位を確保した。城は15年(元和1)廃されたが,39年(寛永16)3代藩主前田利常は大聖寺藩7万石を分藩し,三男利治を藩主とした。大聖寺町は城下町といいながら城郭はなく,藩主は陣屋(藩邸,御館と呼称)に住んだ。…

【那谷寺通夜物語】より

…1712年(正徳2)加賀国大聖寺藩領の全域に起こった惣百姓一揆の記録。62年(宝暦12)大聖寺藩士児玉則忠が底本(不詳)に文飾を加え,かつ自分の見聞を補筆したもの。…

【前田氏】より

…1634年(寛永11)の朱印高は119万2760石。39年,3代利常は隠居に際して次男利次に越中国富山藩万石,三男利治に加賀国大聖寺藩7万石(1821年10万石待遇となる)を分封した。64年(寛文4)の本藩朱印高は102万5020石余。…

※「大聖寺藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大聖寺藩の関連キーワード東京大学本郷構内遺跡飯田屋八郎右衛門那谷寺通夜物語片山津[温泉]菅生石部神社山代[温泉]小栗 孝三郎小栗孝三郎大聖寺一揆藪内休々斎加賀(市)加賀[市]桂田富士郎後藤才次郎鹿野小四郎三藤文次郎河野通英瓜生外吉前田利直前田利幹

大聖寺藩の関連情報