日本大百科全書(ニッポニカ) 「大聖寺藩」の意味・わかりやすい解説
大聖寺藩
だいしょうじはん
加賀国大聖寺(石川県加賀市)周辺を領した外様(とざま)藩。加賀藩支藩。藩主前田氏。1639年(寛永16)加賀藩3代藩主前田利常(としつね)が前田家維持を目的に富山藩10万石、大聖寺藩7万石を分封して成立。藩主は大聖寺館邸に住んだ。当藩はこれといった産業をもたないため財政は苦しかったが、1821年(文政4)江戸屋敷の門構えや江戸城中の席次、詰所にかかわる見栄(みえ)・外聞から、実収の伴わぬ10万石に石直(こくなお)ししたことによりいっそう窮迫した。このため、財政は本藩に多く支えられたことから、行政も本藩の影響が大きく、歴代藩主14人のうち5人が本藩から入った。初代藩主前田利治は財政自立のため鉱山や九谷(くたに)焼窯の開発に努め、2代利明も新田1800石、矢田野9か村を開き、また、樫(かし)の実、茶の実の栽培、山中谷の製紙業、あるいは片山津(かたやまづ)温泉の鑿泉(さくせん)を行った。なかでも九谷焼窯の生産には力を注いだ。今日、その大胆な構図、雄勁(ゆうけい)な描線は「古九谷」と称され、数々の名品を残しているが、17世紀末には廃窯となった。3代利直が大聖寺川辺に建立した長流亭(ちょうりゅうてい)(川端御亭(かわばたおちん))は有名である。藩政後期、財政はさらに窮迫し貢租の取り立ても厳しくなった。1712年(正徳2)秋、免租、減免を要求した全藩にわたる百姓一揆(いっき)が起こり、十村(とむら)(大庄屋(おおじょうや))や豪商を襲撃した。藩は貸米、用捨(ようしゃ)米により鎮静化を図った。こののち、幕府の助役により財政はさらに悪化した。藩末、吉田屋九谷窯の再興、大聖寺絹の生産が進められ、また、北前船(きたまえぶね)の船主を輩出した。1871年(明治4)廃藩、大聖寺県となり、金沢県に併合されたが、その際、藩債整理のため重税を課したことから一揆(蓑虫(みのむし)騒動)が起こった。76年さらに合併して石川県となる。
[田中喜男]