日本大百科全書(ニッポニカ) 「大西豊五郎」の意味・わかりやすい解説
大西豊五郎
おおにしとよごろう
生没年不詳。幕末期の一揆(いっき)指導者。備前(びぜん)国上道(じょうとう)郡神下(こうした)村(岡山市中区)の穢多判頭(えたはんとう)。1856年(安政3)に岡山藩の被差別部落を結集し、藩の部落差別強化に反対して蜂起(ほうき)した渋染(しぶぞめ)一揆の理論上の指導者であり、『禁服訟歎難訴記(きんぷくしょうたんなんそき)』という貴重な一揆の記録の筆者でもある。岡山藩は1855年に、穢多身分に対して渋染・藍染(あいぞめ)の衣類の着用を命ずる触書(ふれがき)を出した。これに対し藩内の被差別部落は、総寄合で差別撤廃の強訴(ごうそ)戦術を決定したものの、郡役人や村役人の切り崩しで脱落する部落も相次ぎ、しだいに神下村が強訴実行の中核となっていった。豊五郎は強訴の組織化とその決行に奔走した1人で、藩の捜査対象とされた指導者12人のなかに含まれている。豊五郎は「人は死して骸(むくろ)腐(ふ)すると雖(いえど)も名を天下に顕(あらわ)す」と記し、激しい渋染一揆を闘った誇りをもって『禁服訟歎難訴記』を書き残した行動的知識人であった。
[三好昭一郎]
『柴田一著『渋染一揆論』(1971・八木書店)』