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大西豊五郎 おおにし とよごろう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大西豊五郎 おおにし-とよごろう

?-? 江戸時代後期の一揆(いっき)指導者。
備前岡山藩の身分差別強化策に反対して,安政3年(1856)渋染(しぶぞめ)一揆を指導。53ヵ村の被差別民を結集させ,強訴(ごうそ)戦術を展開して,藩の触書(ふれがき)を空文化させた。一揆の記録を「禁服訟歎難訴記(きんぷくしょうたんなんそき)」として,かきのこした。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

大西豊五郎

生年:生没年不詳
江戸後期の備前国(岡山県)渋染一揆の指導者のひとり。備前国上道郡神下村の判頭(岡山藩の村役人で,幕府領の百姓代に相当)で,明治になり大西姓を名乗る。渋染一揆は,安政3(1856)年被差別身分の人たちが,岡山藩の身分差別的な服装規制に対して闘った一揆。前年12月,岡山藩は藩政改革のひとつとして倹約令を出し,被差別身分の人たちに対しては,「別段御触書」として,新しく衣類を用意するときは,無紋の渋染,藍染以外は認めないなどとした。これに反発した被差別身分の人たちは法令への調印を拒否し,藩内の被差別部落53カ村に連絡して寄合を持ち,嘆願書を作成,差別政策を拒否し,百姓と平等の取り扱いを要求した。この嘆願書が岡山藩によってつき返されると,邑久郡虫明(邑久町)の伊木忠澄(岡山藩家老)の屋敷へ強訴する方針に発展。同年6月13日,吉井川の河原へ結集し,千数百人の強訴によって嘆願書は受理された。藩はこののち服装規制を強制しておらず,差別政策に対して勝利した。しかし一揆指導者に対する処罰は厳重をきわめ,12名が入牢,うち6名が病死。豊五郎は,取り調べの段階で郷里を出奔し,藩の厳しい探索をかわし,ついに行方は知れなかった。のちに,一揆のいきさつを記録した『禁服訟歎難訴記』を書いたといわれるが,それを疑問視する考え方もある。<参考文献>柴田一『渋染一揆論』,『岡山県史近世Ⅳ』

(三宅紹宣)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大西豊五郎
おおにしとよごろう

生没年不詳。幕末期の一揆(いっき)指導者。備前(びぜん)国上道(じょうとう)郡神下(こうした)村(岡山市中区)の穢多判頭(えたはんとう)。1856年(安政3)に岡山藩の被差別部落を結集し、藩の部落差別強化に反対して蜂起(ほうき)した渋染(しぶぞめ)一揆の理論上の指導者であり、『禁服訟歎難訴記(きんぷくしょうたんなんそき)』という貴重な一揆の記録の筆者でもある。岡山藩は1855年に、穢多身分に対して渋染・藍染(あいぞめ)の衣類の着用を命ずる触書(ふれがき)を出した。これに対し藩内の被差別部落は、総寄合で差別撤廃の強訴(ごうそ)戦術を決定したものの、郡役人や村役人の切り崩しで脱落する部落も相次ぎ、しだいに神下村が強訴実行の中核となっていった。豊五郎は強訴の組織化とその決行に奔走した1人で、藩の捜査対象とされた指導者12人のなかに含まれている。豊五郎は「人は死して骸(むくろ)(ふ)すると雖(いえど)も名を天下に顕(あらわ)す」と記し、激しい渋染一揆を闘った誇りをもって『禁服訟歎難訴記』を書き残した行動的知識人であった。[三好昭一郎]
『柴田一著『渋染一揆論』(1971・八木書店)』

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